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貴方だけの

左右

「■■■」
 威圧的な声。それだけは分かる。
 だが知らない言葉だ。必死に推察するも焦るばかりで考えがまとまらない。目の前のDomは自分に命じているというのに。
 結局ただただ見上げるだけのSubに、苛立ちと共に鋭い視線が向けられた。ヒュ、とSub──長谷部の喉が鳴る。
 真正面から浴びせられるGlareは本能的な恐怖を呼び起こす。硬直する長谷部の顎を、焦れた男が掴んだ。骨が軋むほどの強さだ。痛みに、ほんの一瞬正気が舞い戻る。
 このおとこはだれだ、あるじではない、おれのDomでもない、こいつは、
「■■……〈SAY(言え)〉!」
 ぐわん、と浮かんだ疑問も何もかもが吹き飛ばされた。
 一音一音に恫喝を込めた、再びの命令。
 Glareに当てられたSubの頭に無理矢理意味をねじ込んでくる。カタカタと震えながら口を開く。己の意思とは無関係にひとりでに言葉が紡がれた。
「お……、俺は、出来損ないだから、売られまし、た」
 チ、と男が舌打ちをする。
 ああ、そうだ。こちらの言葉も向こうには通じないのだ。このバグを持って自分は生まれた。だから──今、ここにいるのだろう。
「■■■■■■■■■」
「■■、■■■■■■■■■」
 声が増える。そこで初めて、他にも人間がいることに気付いた。仮面をつけた人物はDomと何事か言葉を交わし、嘲るような声音をこちらに向ける。
「■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■?」
 吐き出される内容が理解出来ない。ゲラゲラと降り注いでくるのは嘲笑なのだろう。なのに。
 何も貰えないと分かっている筈なのに手を伸ばしてしまう。命令を聞いた。貴方の期待に応えた。だから認めてほしい。求めてほしい。どうしようもないSubの性だ。男は冷めた一瞥を寄越す。
 打ち捨てるように手を離され、硬い地面に倒れ込んだ。
 その目はもうこちらを見ない。
 引き潮のように血の気が下がる。意識の浅いところで警鐘が鳴る。この性は厄介だ。Domの仕打ちひとつでこんなにも。
 呼吸が浅くなる。寒い、暗い。
 薄っすらと視界に幕がかかる。
 ──『いいこ。よく頑張ったね』
 誰、だ。
 脳裏に響いたのは幻聴に違いなかった。けれど、その声を知っている。
 閉じる意識の彼方に、温かな光が灯ったような気がした。

 


    ◆ ◆ ◆

 


「■■■■■」
 声と共に指が差し出される。
 発された言葉が何なのか、自分には理解できなかった。
 それでも『彼』は根気強く、慈愛すら含んだ目でこちらを見つめる。
 どうにか応えたかった。何か読み取れぬかと自分の視線は何度も彼の目と指を往復した。
 考えて、考えて、結局分からぬまま。
 そっとその指を握ったのだ。
 その時『彼』は──どう反応したのだったか。

 ぱちん。
 泡が弾けるように意識が浮上した。
 見知らぬ天井。薄暗いのは夜明け前だからだろうか。
 否。
 身を起こし頭を振る。
 どうやら自分は板間へ直に寝かされていたらしい。三畳にも満たない部屋。三方は壁、目の前には格子。座敷牢、という単語が浮かんだ。格子の向こうは雑な造りの廊下に見える。この牢は横に連なっているのかもしれない。
 ピチョン、ピチョンと水滴の音が響く。鉄の格子に結露が粒を膨らませている。どこか外気に通じる穴でもあるのか。それとも単に湿気が溜まっているのか。刀の保管もなってない愚か者め、と内心嘲笑した。
 水音が耳につくほどの静かな空間だ。人間の気配はない。
「見張りも無しか」
 外を窺うべく立ち上がろうとした、その瞬間だった。
 ガクン、と膝が萎えた。全身を脱力感が襲う。
「ッ、」
 咄嗟に本体を喚ぼうと試みるが手応えがない。為す術なくべしゃりと床に崩れ落ちた。くそ、小さく悪態をつく。
 妙な霊力が纏わりついている。刀剣男士と承知の上で監禁するくらいだ、それなりの対応はしてあるのだろう。
(であれば術者がいる筈だ。本体から離されていることを考えれば、付喪神の扱いを知っている役職かもしれない。政府の内部犯か、……?)
 つらつらと思考を巡らせたところではたと気付いた。
 立派な非常事態であるのにどこか──何故か冷静だ。そう言えばSubdropに陥ったにしては倦怠感のひとつもない。あの幻聴がケアになったのだろうか。そんな馬鹿な。
「■■■?」
「!」
 突然の声は、壁の向こうからだった。
 廊下に響くこともない、微かな声量。敵意は感じられない。
 どこから伝わったのだろうと音の出所を視線で辿れば、先人の抵抗だろうか、床に近い部分の漆喰が僅かに崩れ骨子を晒していた。その穴が、壁を挟んですぐ隣のご同類の言葉を運んでくれたようだ。
「■■■■■■■■■こ■■■わかった■■■。ぼく■しょくだいきりみつただ。きみ■?」
 聞き覚えのある声だ。こちらを落ち着かせるよう努めて穏やかに話しかけてくれている。いくつか意味が分かる音があった。知っている名もひとつある。燭台切光忠。
「燭台切、か? 俺は、へし切長谷部だ」
「えっ? ごめん、■■■■」
「やはり通じないか」
「……ごめん■、きみ■ことば■わからない■。■■■■■■にんげん■『セーフワード■■■■たかくうれる』■言って■■■■■■■■■■」
 長いセンテンスだというのは分かる。判断できたのはいくつかの単語だ。察するに、ろくでもない理由で連れてこられたには違いなかった。自分の抱えるバグによって向こうからのCommandも容易には効かないが、こちらからのSafewordも通じないのを知っている。Subを使い潰すようなDomにとって使い勝手は良いだろう。
 ……それにしても何故、断片的とはいえ言葉が理解できたのだろう。長谷部にとって周りが発する言葉は知らない外国語のようなものだ。どこで区切るのか、どこが主語でどこが述語なのかも怪しい。だと言うのに意味が分かる部分がある。何処かで学習したんだろうか。ここに至るまでの記憶が曖昧だ。自分の本丸はどうなったのか。あのDomは何だったのか。主は、自分を売ったのだろうか。いや、
 ………いや、違う。
 売られたと自分で口走った筈なのに、そうではないと頭の奥の何かが否定する。
 同時に、自分の主は無事だ、という強い確信があった。へし切長谷部にとって主さえ確かであれば他は些事だ。
 暫しの沈黙の後、壁の向こうの燭台切らしき存在は再び口を開いた。
「こえ■■■■■■、もしかしてはせべくん、■■?」
 トン、と心臓が跳ねた。
 耳に馴染んだ音があった。己の名だ。そうだ、「長谷部」ではなく「長谷部くん」と『彼』は呼ぶ。夢現の中で見た『彼』も燭台切光忠の一振りであったのかもしれない。
 力の入らない指をじりじりと這わせ、漆喰の隙間へと伸ばす。指先で円を描いた。〇、で通じるだろうか。
「! はせべくん■■■■■■」
 声に喜色が混ざる。無事伝わったらしい。
 どうにか遣り取りできそうだと安堵したところで、彼は矢継ぎ早に話し出した。
「ここ■、■■■■■■ぼくたち■■■■■■ばしょ。さぶ■■■■■■■。あるじ■■■■■■■■■■……ぼく■■■。きみ■さいしょ■■■、■■■■たかいどむ■いる。■■■さぶ■■■■■■。■■■れいりょく■■■■■■■■■■■■■■■からだ■うごかなくなって、……ごめん、もしかしてぜんぜん■■■ない?」
 状況を説明してくれているのかもしれないが、申し訳ないことに不思議な音にしか聞こえない。何度か指で×を描いていると気付いたようでピタリと声が止まった。
 断片を繋ぎ合わせようとするも分かる単語が少なすぎる。
 どうしたものだろう。敵地の情報は取り逃がしたくない。それに最後トーンが落ちたのは、あれは……落ち込んでしまったのだろうか。こんな場所だ。同朋が来たというのに、言葉が通じないのならば無理もない。
 ……『彼』はどうだったろう。
 言葉一つ伝えるのにこんなにも手間のかかる自分が、煩わしくはなかっただろうか。
 ひとつ深呼吸する。ともすれば『彼』で埋まりそうな思考を静めた。
 考え、ようやく動くようになった腕を伸ばす。隙間ではなく格子の方へ。結露の溜まった部分に指を浸すのは問題なかった。濡れた指先を今度こそ隙間の床板へ置けば、ジワリと水を吸い色が濃くなる。そのまま丸を描いた。これは輪郭。点、これは目。半円、これは口。斜めの線に丸。これは眼帯。完成したその横にハテナを追加する。
「ああ!」と向こうで声が上がった。
「そうだ■。そこ■■■■■■。うん、あってる■。ぼく■しょくだいきりみつただ■」
 向こう側で黒い指先が円を描く。燭台切という男は察しが良い。
「■■■■きみ、え■うまい■」
 ふふ、と吐息だけの笑い声。突然のお絵かきに多少気でも紛れただろうか。
 瞬間。脳裏にチカリと光が瞬いた。
 ──こんな風に、絵を見せた誰かがいた。あの時は、確か自分の絵ではなかった。絵は言葉の代わりだったから、誰もかれもが描いて説明してくれた。けれどたまに意図が読めないものがあって……それで、『彼』に聞いたのだ。それを見てこんな風に『彼』は脱力して笑った。それからどう説明しようかと頭を捻っていた。
 『彼』とは、誰だったろうか。
 手繰り寄せようとした像は、途端に霞みがかり遠くへと消えていく。
 まだその時ではないとでも言うように。
「■■■■まって、ぼく■かいてみる。■■■、さっきせつめいした■■■……」
 燭台切の声にハッとする。
 慣れない手つきだが、向こう側から床に書き足されてゆく。
 先程長谷部が描いた燭台切の顔に被さるよう縦の線が引かれる。これは格子……檻、だろうか。その横に紙幣のようなもの。それから刀を描き×をつける、更に折れた刀を描きこれにも×。
 こうして捕まったものは売買される、ということか。本体が呼べなかったり脱走のため動けないのは先程身をもって知った。この絵からすると自害も出来ないのだろう。逆に考えれば自分たちを無事売り渡すまで折るつもりはないのかもしれない。生きて帰るチャンスはあると言うことだ。
なるほど分かった、と長谷部の指が円を描く。向こう側から安堵の混じった声が聞こえた。
 もっと詳しい話を聞きたいところだが、互いに見える範囲は絵で埋め尽くしてしまった。床が乾くまで暫し待つしかない。それは燭台切も察したようだった。
 束の間の沈黙が落ちる。
 ぽつり、小さな呟きが零された。
「…………はせべくん、■■■■■■■■■」
 望郷の響きを乗せたそれは、きっと自分ではないへし切長谷部へ向けたのだろうと分かった。

 


    ◆ ◆ ◆

 


 その本丸の燭台切光忠とへし切長谷部は同期であった。当時審神者は就任して日が浅く、鍛刀場で二時間半と三時間に胸を躍らせて顕現させたと言う。
 審神者が並んだ打刀と太刀に霊力を注ぐ。それぞれの刀身に桜が舞い、そして。
「──僕は燭台切光忠。青銅の燭台だって斬れるんだよ。……うーん、やっぱり格好付かないな」
「■■■■■■、■■■■■■。■■■■■、■■■■■■■■■」
「燭台切とへし切か! よろしくお願いするね」
「■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■」
「おっとそうなの、じゃあ長谷部だ」
 えごめんなんて???
 そう思ったのは燭台切だけではないらしく、審神者の横にいた刀──初期刀の加州清光も外宇宙的脅威を目にしたかのように啞然としていた。
「まってまって主、その、ええと、長谷部っていうの? の言葉分かるの?」
「ん? どういう意味?」
 清光の方へ振り向いた審神者の後ろで、長谷部が今しがたの自分と同じ顔をしたのを燭台切は見逃さなかった。
 そこから双方の言い分を聞いた審神者はううんと首を捻り、近くにあった紙とペンを新刃二振りに持たせた。自分の名前を書いてと命じられるまま各々筆を走らせる。「燭台切光忠」と記した己の文字が美味いのか下手なのかは分からなかったが、筆まめな元主の刀として格好よく書けていたらいいな、と思ったものだ。一方の長谷部の手元には「縺ク縺怜?髟キ隹キ驛ィ」。上手い下手の話ではなかった。
 謎言語が踊る紙に、おあ、と加州がか細い悲鳴を上げた。ついでに長谷部も燭台切の手元を見てうわ、という感嘆詞に近い声を漏らした。
「その手の動きでこの文字が生まれるのが分かんないんだけど!」
「なるほどなあ。多分長谷部は文字コードが違うんだろうな」
「もじこーど?」
「例えだけどね。言語の出力と入力の回路が皆と違うんじゃないかなって。だから長谷部視点では皆の言葉や文字の方が奇怪な言語になってる。バグだなあ、やっちまったぜ」
 カラカラと笑う審神者の横で、長谷部の顔から血の気が退いた。
(っ、いけない!)
 ただの勘であったが、反射的に燭台切が彼の腕を掴んだのと、彼が炉に走りだそうとしたのは同時だった。
「■■!」
「駄目だ!」
「なになになに駄目だよ何してるの長谷部!」
「燭台切、離さないで!」
 鍛刀場が突如修羅場と化す。
 顕現したばかりの燭台切ではあるが、抵抗する長谷部をすんなりと抑え込めてしまうことにゾクリと背が泡立った。その時は、それが何故かは分からなかったけれど。
「■■■■■■■■。■■■■、■■■■■■■■■」
「刀解はしないよ!? こうして主とは話も出来てるし、バグはこっちのせいだし、まあ不便はかけちゃうけど。この本丸で力を貸してほしい。どうしても辛かったら考えるけど、まずはお試しで……」
 燭台切と清光からすれば彼が何を訴えたのかはやはり分からなかった。けれど、審神者の言葉から内容は察せられた。
 どうにかこうにか宥めすかす審神者の説得に、やがて折れたらしい長谷部は幾ばくか逡巡したのち、躊躇いがちに、けれどしっかりと頷いた。
 ほう、とその場にいた全員が胸を撫で下ろす。
(ああ、よかった。──よかった?)
 そんな中でひとりだけ。燭台切の中には不可思議な感情が渦巻いていた。
(瑕疵があるのなら、新しく打った方がいいのは当然だ。彼は正しい。何故僕は止めたんだろう。それに、どうして今安堵しているのだろう)
 人の身ゆえの思考なのだろうか。先程まで長谷部の腕を掴んでいた己の掌を握り、そっと開く。どうしてか感触が忘れられない。
 その後、こんのすけによるバイタルチェックで言葉以外のバグはないと判明したし、ついでに燭台切はDom、長谷部はSubだということも分かった。その場で主による講座を受けたが、人の身として生まれたばかりの二振りにはピンと来なかった。
 燭台切には、果たしてそんな欲求が自分に芽生えるだろうかと何処か他人事のように思えた。それよりも。
(……長谷部くんは大丈夫なんだろうか)
 言葉が通じないと言うことは、safewordが使えない。そもそも、Commandが通じるのかも怪しい。
(いや、僕が心配することじゃないけど)
 それは、将来彼のパートナーが考えることだ。そも、Dom性やSub性を持っていたところで、必ずしもその本能に従順になれる訳でもないという。刀として生まれても血肉を知らぬものだっている。それと同じだ。何らかの理由で肉どころか紙も断てない刀だって──
 ああ、よくない。
 自分自身が納まっている鞘を持ち直す。そっと隣を見れば、真剣に主の話を聞いている長谷部がいた。
 何故か、その横顔から目が離せなかった。

 


 初対面の印象が強烈だったからだろうか。燭台切の目は無自覚に長谷部の姿を追い、気付けば傍にいた。燭台切を探しているならまず長谷部を探せ、と揶揄される程には。
 多少の紆余曲折はあったが、長谷部は順調に本丸に受け入れられた。言葉は通じずとも繰り返せば音から単語を想像することはできたし、そうでなくとも図で説明すればある程度は伝わったからだ。とは言え、本丸に仲間が増えれば独特な感性の男士も増える。長谷部が「この絵の意味が分からない」と相談する先はもっぱら燭台切で、それについて悪い気はしなかった。

「『あるじ』『しゅめい』『しゅつじん』は分かるようになりましたね、さすがに」
 そう零したのは宗三だった。
 本丸の濡縁、かの麗人は膝に乗せた小夜と共に八つ時の饅頭にかぶりつく。蒸したてのしっとりしたそれは燭台切が長谷部へと持ってきたものだったが、生憎と席を外していたためこの兄弟の腹に納まる運びとなった。
 宗三は言葉の壁など知ったことではないとごく普通に話しかける男士の筆頭だ。長谷部も遠慮なく謎言語で応対している。独特な距離感を持つ二振りは内容の一、二割が通じれば満足であるらしい。
「僕も……自分が呼ばれてるのは分かるようになりました。それから、『ありがとう』も」
「そうだね、僕も『おいしい』『なに』『いい』はすぐ聞き取れるようになったよ」
 三者三様に長谷部語知識について披露する。使用頻度の高い言葉はなんとなく察せるようになった。長谷部も同様らしく、本丸の男士相手ならある程度会話できないこともない。うんうんと感慨深く頷いていると、宗三が「貴方のはちょっとこう……系統が違うんですよね」と遠い目をする。系統とは。
 疑問符を浮かべる燭台切にそっと溜息を吐いて、ああそれから、と宗三は続けた。
「皆が分かる代表格はアレですね」
「アレって?」
 皆が分かるとなると、『あるじ』だろうか。いや、これは先に出ている。
 何故だか心底しょうがないという顔をした宗三は、億劫そうに口を開いた。
「『しょくだいきり』」
「しょくだいきり」
 声は同時だった。
 振り返れば、話題の長谷部が立っていた。三振り同時に見上げられ目を瞬いている。
「なんだ、■■■■■■?」
 取り込み中か、邪魔したか、のようなニュアンスだろう。
「見てのとおりただのおやつタイムですよ。ちょうど貴方の話はしてましたけど」
「■■■■■■■■■。おれ■■■?」
「貴方の分はどうせそこの伊達男が持ってきてくれますよ」
「■■■■■■、……■■■■■■しょくだいきり?」
「ええ、燭台切が」
「■■、しょくだいきり、どうした」
「え、あ、いや」
 鏡を見たら真っ赤だろうな、と自分でも分かった。
 自分から長谷部の近くにいる自覚はあった。けれど逆に長谷部がこちらを意識し名を呼んでくれているのは思い至りもしていなかった。
 本丸の皆が覚えるほどに、なんて。
「かお■■■、■■■■■■」
「こ、この部屋暑いよね!」
 顔が赤いだとか熱があるんじゃないかとか、そんな指摘だ。慌てて誤魔化すと背後で宗三がフヒュウと噴き出した。
「そ、それで、どうしたのかな」
 促せば、思い出したように長谷部が小さなスケッチブックを取り出す。いつでもやり取りできるよう持ち歩いている、彼の言葉代わりだ。
「このえ■わからな■■」
「絵だね、任せてよ!」
「なんだ。お饅頭の話じゃなかったんですね」
 相変わらず適当な会話をしていたらしい宗三が、最後の一欠けらを飲み込んだ。
 どうやら燭台切にいつもの判じ絵を頼みに来たらしい。ぺらりと差し出されたページを全員で覗き込む。
「………」
「………」
「……鶯丸さんの絵だね」
 ぽつりと零したのは小夜だった。
 署名がある訳ではなかったが、そうだろうなと他二振りも頷く。
 推定馬らしき生物に、推定握り飯のような物体を与えようとしている、推定鶯丸らしき刀。
 馬は首の細さと頭の大きさのアンバランスさ、足の不揃いさが独特で、握り飯は米の一粒一粒が妙に立体的だ。鶯丸は人の形ではなく、ここだけ非常に写実的な刀が描かれている。
 彼が馬にやたらと握り飯を食べさせたがるのは知っている。そういえば明日は長谷部と鶯丸が馬当番だ。それで俺はこうするぞと伝えようとしたのだろう。
「……貴方、任せてとか言ったでしょう。ほらへし切が待ってますよ」
「う~~ん、はは……」
 力なく笑う燭台切に、長谷部がきょとりとしている。
 ひとつひとつの物体は教えられるが、そこからの意図を説明するのが難しい。更にこれをしたがるだろうから止めてね、というのを加えて伝えなければならない。
 どうにも骨が折れそうだ。けれど。
 そうやって長谷部のために使う時間が、燭台切は嫌いではないのだ。

 


    ◆ ◆ ◆

 


 口を開いている人間と跪いている人間。DomとSabを表した絵だとすぐに分かってくれたらしい。
 長谷部の絵のDomの横に、燭台切が指を伸ばし書き加える。三角形をいくつか重ねたそれは、おそらくDomのランクだろう。性質の強さを表すランクの基本はC、B、A、Sだが三角形は5つ。稀に聞くSSというやつだろうか。それから燭台切は矢印を格子の方へ向けて引いた。外にいる、無理やりにCommandをねじ込んできた男はこのSSランクなのだろう。道理でだ。グラグラする頭を押さえながら長谷部はわかったと円を描く。
 状況を打開出来ないまま、恐らく三日は経った。
 食事もなく放っておかれるが刀剣男士が飢えで死ぬことはない。相変わらず見張りもないが脱出の意思を見せようとするとやはり体が動かなくなる。何よりいただけないのは、日に一度例のDomがやって来ることだ。
 男は格子の前へやって来てたった二つだけ命じる。「〈Come(こい)〉」「〈Say(言え)〉」。DomのCommandは、Subの身体を勝手に動かす。或いは補助する。それも本来は信頼関係がありSubの意志あってこそなのだが、あの強力なDomは何もかもを飛び越えて従属だけさせる。そもそも通常のCommandが通じない筈の長谷部に効くのは、ランクの高さに加え奴の言葉に霊力が乗っているからだ。数度の邂逅だが、審神者に類する匂いを感じていた。
 結局こちらの言葉は分からないようで、喋るだけ喋らせて去って行く。どうしてここに来たのか。出来損ないだから売られた。毎日同じ問答の繰り返しだ。何を聞き出したいのだろう。Glareに毎回当てられる身にもなってほしい。
 今も例の男が去ったばかりだ。明滅する視界でずるずると蹲る長谷部に隣の燭台切が声をかけてくれるが、厚い膜に阻まれたように遠い。
 けれど、そんな時はあの声が聞こえるのだ。
 ──『いいこ。よく頑張ったね』
 脳裏で響く声に、スッと息が楽になる。
 『彼』は自分のDomだったのだろうか。
 得体の知れぬ、けれど加護のようなそれが今の長谷部の唯一の拠り所だった。
 この三日間の試行錯誤で知ったのは、自力で此処から脱出するのは困難であること。
 隣の燭台切はswitchで、万屋街に買い物に出た際に攫われたこと。珍しいながらもSub専門で売買しているらしいここでは売れ残っていること。パートナーは彼の本丸の長谷部であること。
 燭台切の知る限り、連れてこられたSubは一週間の内にはいなくなること、だ。
 リミットは刻々と近付いている。いや、現状動けない以上、もしかしたらこの檻から出される瞬間の方が逃げの一手を打てるかもしれない。可能性は零ではない。
 それに、と思考を巡らせる。
 万屋というのは引っかかる。やはりあの男は審神者なのではないだろうか。そうでなくとも時の政府の関係者には違いない。膿というものは何処にでも発生する。
 重い溜息を吐き、少しだけと目を閉じる。
 逃げて、帰れたら。『彼』は褒めてくれるだろうか。
 主に捨てられたのではない、というのは「分かって」いる。しかし『彼』はどうなのか分からない。自分はこんなややこしいSubだ。関係が解消できて喜んでいたらどうしよう。
 時折聞こえる幻聴もただの妄想であるかもしれない。朧げな『彼』はずっと優しいDomだった。
 いや。そうだ、一度だけ。
 『彼』にCommandを強いられたことがある。
 思い出すのは書庫だ。日差しを避けた場所にあるひんやりした部屋。墨や紙、本独特のにおい。
 文字が読めない長谷部は書庫と無縁に思えるかもしれないがそんなことはない。初期の頃は図鑑を手放せなかったし、図の多い戦術の本を只管に開いていた時期もある。それから、レシピ本を眺めていることが多かった。こと初心者向けのレシピ本には丁寧に図と写真が載っているものだ。他刃の補助を受けず実際に作ってみて成功する、というのは自分の中の何かを大きく動かした。作業を繰り返すうちに厨メンバーの一員となったのを『彼』は歓迎してくれた。
 ……あの日、自分は書庫の奥にいた。
 本棚から引き出したばかりの重たい本。手に持ったまま表紙を開く。カラー印刷を施されている質の良い紙は、しかし暫く開かれていなかったようで静電気めいた抵抗を見せながらもったりと捲られてゆく。
 遠くで蝋の効いた引き戸が軽やかに滑る音がした。『彼』が来たのかもしれない。
 『彼』も書庫の常連だった。同じ本を読むことが多く、伝わりきらないながらもひっそりと感想を交わすのが好きだった。
 床板を踏む音が書庫内を移動する。少し立ち止まっては近付いてくるので、もしかしたら自分を探していたのかもしれない。けれど当時の長谷部は気付かずに目の前の本に夢中になっていた。
 その時に読んでいたのは何だったか。
 ピタリと足音が止まる。気配に顔を上げれば、間近に迫った『彼』が手を伸ばしたところだった。
「〈見るな〉!」
「!」
 本が力任せにひったくられる。『彼』らしからぬ衝動的で、乱暴な動きだった。
「見ないで、くれ」
 縋るような声。
 ストン、と意味が入ってきた。今思えばそれが初めて受けたDomからの命令だったのだろう。自然と堅く目を瞑った。
 『彼』は何を遠ざけたのだろう。
 読んでいたのは、眺めていたのは、確か──図録だ。自分たちを記した、分厚く、詳細な写真が載った。
 黒い刀身。溶けたはばきの金が伝って。
 あれは。

 


    ◆ ◆ ◆


 あれほどの無様は後にも先にも無いだろうと燭台切は思う。忘れもしない書庫での出来事だ。
 己の負の部分を長谷部に見られるのが嫌だった、のではない。長谷部に付いて回り何かと世話を焼いていた、その動機が同情だとか、傷の舐め合いだとか、そんな風に思われるのが怖かったのだ。経歴も状態も立派なへし切長谷部という刀に、ただひとつ言葉という瑕疵があった。そこに興味を惹かれたのは確かだ。でも、だから手を貸してやろうとか優越感に浸りたかったとか、そんなことは決してない。
 見極めたかったのだと思う。瑕疵があるへし切長谷部でも人に望まれた。既に刀として役に立たない筈の自分も人に望まれた。そんな自分たちはどこまで行けるのだろうと近寄って、共に走ってみて、呆気なく恋に落ちた。無二になりたい、と思ったのだ。その気持ちを伝えるか仕舞い込むかはまだ決めていなかった。だって、まだ自分の瑕疵のことを伝えていなかったから。
 燭台切にとって、長谷部からの誤解というものは恐ろしいものだった。本来言葉を尽くせば解けるものが長谷部には通じない。彼の中でこうだと思ってしまえば解きほぐすことはとても難しい。歴史が覆らないように、焼けた刀が戻らないように。だから日ごろから言葉を選んで選んで、細心の注意を払っていた。
 だと言うのに、その時は濁流のような弁明が止まらなかった。ちがうんだ、いや、違わないけれど、どうか僕の気持ちを聞いてほしい。支離滅裂できっと長谷部も殆どが聞き取れなかったに違いない。けれど彼は遮ることもなくじっと耳を傾けてくれた。
 何処まで伝わったのかは今でも分からない。ただ最後に「君が好きだ」と勢いで告白してしまったのは、間違いなく通じていた。
 ピクリと長谷部の肩が揺れて閉じていた目を見開いた。動転していた燭台切は無意識に命じていたことに漸く気付いた。慌てて謝罪の言葉を口にしようとした燭台切に、しかし帰ってきたのは柔らかな口付けであった。
「お、おれ■すき、■■思う……」
 彼の口から出る「すき」がただ自分だけに向けられた。


 そんなこんなで燭台切の黒歴史を経て、めでたく二振りはお付き合いを始めることとなったのである。
 勿論、いくつか話し合わなければならないことがあった。特にダイナミクスについてだ。
 DomとSubの関係は、必ずしも恋愛の相手と一致しない。恋人とは別にパートナーを作ることもままある。
 それでもまずは二振りでプレイしてみようと試みた。ふたりだけの夜に、ひっそり、こっそりと。
「Kneel」
 基本の『お座り』だ。分かりやすかろうと指で床を指してみた。
 本来であればSubの身体はCommandに操られ、或いは後押しされストンと腰を下ろす。
 しかし長谷部は燭台切の言葉をよくよく吟味するように少し目を伏せた。それもほんの数秒で、再び開いたアメジストの視線が燭台切の顔と指を何度も行き来する。
 そして──
 そして、おずおずと手を伸ばした長谷部は、床を示していた指をきゅっと握った。
 結果、「かっっっわいい………」という呻き声と共に燭台切の方がへたり込む事態になった。
 これはもう自分は役に立たないので外でパートナーを作った方がいいと長谷部は主張したのだが、燭台切は頑なに首を縦に振らなかった。曰く、充足感が半端ないからCommandとかいらないよね、と。正直なところ長谷部もダイナミクスの悦さに明るくなかったため、それならそれでいいか、というNormalなお付き合いとなった。
 当初は、の話である。

 それは本当に偶然だった。
 短刀たちの隠れ鬼に付き合っていた長谷部が、偶々納屋の近くを通ったのだ。
 不意に開いた戸からぬっと黒い手袋が伸び、抵抗する間もなく長谷部を引きずり込んだ。否、抵抗する気はそも起きなかったに違いない。誰よりも知った気配だったのだから。
 狭い納屋の中。抱き込まれた態勢で悪戯の主こと燭台切を見上げ、長谷部が何事かと言葉を発する──その前に、燭台切は人差し指を己の唇に添えた。そこから漏れたのは、言葉にも満たないような短い吐息。
「〈シッ〉」
 Commandの意図は無かった。ただ、「Sh(静かに)」の音が偶然一致した、それだけだったのだが。
 長谷部の口がピタリと閉じた。
 瞬間、燭台切の中を何かがぶわりと駆け巡った。経験したことのない高揚感、充足感。目の前の従順な存在がひどく愛おしい。
 言うことが聞けてえらいね、いいこだね。そんなことをそのまま口走った気がする。何を言っているのか分からなかっただろう。しかし燭台切の手が褒めるように撫でれば、腕の中の長谷部はふにゃりと脱力し身を預けてきた。
 信頼されている。
 ドッと胸が熱くなった。衝動のまま唇を寄せた。もういいよと言うように舌の先で閉じた唇の境いを突く。燭台切が求める通りおずおずと開いてゆくのがまた甘い充足感を呼ぶ。
 そのまま深く口付けした。後頭部と腰を掌で包み抱き寄せる。長谷部の腕が背に回り、ぎゅうと抱き返されたのを感じた。
 かわいい。かわいい。ああ、僕のSubだ。
 ──タタタ、軽い足音が外を通り過ぎて行った。
 ハ、と我に返る。
「ご、ごめん! Command使う気はなかったんだ、本当に偶然で、でもこんな同意もなく……! 申し訳ない!」
「いい。よかった……■■■」
 蕩けた目で見上げてくる長谷部に堪らない気持ちになる。
 気配に聡い短刀には、おそらく気を遣われたのだろう。なんとも恥ずかしい話ではあるが、ダイナミクスについて認識を一新した事件であった。
 もっと挑戦してみよう。きっと、僕らはもっと欲張っていいのだ、と。

 そうして蜜月を過ごしていた二振りの元へ、不穏な依頼が舞い込んで来たのは秋に差し掛かった頃だった。

 


    ◆ ◆ ◆

 


「囮になれ、と」
 主が冷えた声で言う。
 本丸を訪れたのは、政府職員、他本丸の審神者、そしてやつれた様子のへし切長谷部であった。
「端的に申し上げれば、そうです」
 返したのは職員だ。
「このところ騒がれていたSub男士失踪事件、そして本丸襲撃事件が繋がったのです。刃身売買に加え、ランクの高いDomが攫った男士から本丸の情報を引き出し、それを歴史修正主義者へ売っている」
 恐ろしく深刻な事件だ。しかし、と役人が続ける。
「犯人が、拠点が分からないのです。政府の男士を用いて数度囮捜査を行いました。しかし……Domのランクが高すぎる。自分が囮であることすら吐かされるのか、……破片だけが捨ててあるのが発見されました」
 主と審神者が顔を顰めた。刀剣男士を部下として率いている身としては楽しい話ではない。
「こちらの本丸のへし切長谷部は、言語バグを抱えているとお伺いしています」
「そうですね。Commandが効きにくい。情報を引き出そうとしたところで言葉も分からないでしょう。しかし……」
 職員の台詞をすべて引き受けて、はあ、と主はわざとらしく溜息を吐いた。
「行かせたくねえなというのが本音です。ねえ長谷部」
「主の思うままに」
 控えていた長谷部が小さく頭を下げる。名状しがたい言語にぎょっとした視線を向けられるのは今となっては新鮮だ。先程主が書類をすべて音読したので、長谷部も内容は分かっている。己が適任だ、とも。
「どのみちレキシューが絡んでくるなら拒否権が無いのは分かってますよ。ところで、そちらさんはどのようなご関係で?」
 主が視線を向ける。他所の審神者が姿勢を正した。
「失踪事件を調査し、襲撃事件との関連を発見したのがうちの長谷部なのです」
 へえ、と審神者の後ろの同位体へ視線が移る。
 彼はただじっと返答を待っているようだった。
「……彼のパートナーであるうちの燭台切も、失踪した一振りです」
「……、そう」
 パートナーの燭台切くんがね、あーあーしょうがないなあと主が両手を軽く上げた。降参、と茶化すように。偶に露悪的に振舞うが、情に厚い人だと本丸の誰もが知っている。
「念の為、記憶に封印の術をかけます。万が一言葉が通じてしまった場合の保険です。潜入中心細いかとは思いますが、拠り所になる記憶は朧げに残る筈です。何卒」
「まあ、うちのの安全のためにも仕方ないね。そんで、その封印はどうやって解くんだい」
「任意の方の霊力と合言葉で。よろしければ今、審神者様のお声を登録して」
「いや、それなら適任がいる」
 ぐ、と長谷部の横に控えた太刀が腹に力を入れたのが分かった。
 小さく主が笑う。
「いいな、燭台切」
「ああ、皆を支えればいいんだろう」
「やるぞ、長谷部」
「お任せください。最良の結果を、主に」

 


    ◆ ◆ ◆

 


「〈Come(来い)〉」
 今日は「話せ」は無かった。のろのろと近付けば、ギイ、と耳障りな音がして格子が開かれる。
 チャンスだ。そう思った。しかし牢を出る寸前、額にパシリと軽い衝撃を受けた。札だ、と思う間もなく覚えのある脱力感が襲い来る。
 歯ぎしりの一つもしてやりたいが、食いしばれもしない。牢の中よりも僅かばかり効力の薄いそれは、「〈来い〉」と命じられれば動けてしまう。
 ふらふらと隣の牢の前を通る瞬間、ようやく燭台切を目視出来た。酷くやつれている。そうだろう、彼も主とパートナーから引き離された被害者なのだ。どうにかしてやりたかった。どうにか、ならないのか。
 燭台切が何事か叫んだようだったが、男は無視し外へと向かう。
 縺れる足を無理やり動かし、階段を上る。
 今までの場所は地下牢であったらしい。進めば数日ぶりの日光が目を焼くが、瞼を閉じることもままならない。
 地上に出た長谷部はやはり、と内心で唸った。
 見覚えがある造り。本丸だ。どこもかしこも荒れ果て、何処にも神の気配はないが、間違いない。
 覚束ない足取りでどうにか前に進む。進みたくは無いのだ。今すぐ振り切って、ゲートへと走りたい。なんならコイツの喉を掻っ捌いてやりたい。けれどそのひとつも叶わないまま、男に続き広間へと至る。
 仮面をつけた数人の人間がいた。
 そこは豪壮な部屋だった。調度品、ソファ、柱の一本一本も変えたのか黒光りの艶のある木が出迎える。他の放っておかれるばかりの部屋に比べここだけが異質だ。「特別な部屋」なのだろう。質の良い奴隷を売買するような。主人の豊かさを誇示するような。
 中央に自分の本体が恭しく鎮座させられている。飾られて反吐が出そうなんて初めてだ。
「〈Kneel(お座り)〉」
 かくん、膝の力が抜ける。ぺたりと座り込んだ長谷部に満足そうな顔をし、男はもう一つ命じる。
「〈Stay(待て)〉」
「ッ、」
 体が動かない。ベリ、札が剥されると周囲からほう、と感嘆が漏れた。
「こまんど■■■すこし■■■■■■いる■、■■■せーふわーど■■■■■■、■■■■■■■■■」
 何やら売り口上を述べているが冗談ではない。
 必死に頭を動かす。札は外れた。今しかない。だと言うのに、体はピクリとも動かない。
「■、だれ■■■■■■■たかく■かって■■■■」
「■■■■■■」
「■■■■■■」
「■■■、■■■■■■」
 仮面達が競うように似た言葉を口にする。
 競売、のようなものが始まった。
 おしまいへのカウントダウンだ。それとも買われた先であればまたチャンスがあるだろうか。いや、楽観的過ぎる。
 一秒でも早く打開しなければ。
 だって、此処じゃないと。
 記憶がグルグル回る。
 此処じゃないと、『彼』が来てくれない。
「──■■、■■■■■■■■」
 ハ、と息を呑む。
 見世物にされていた本体を男が掴む。それからいそいそと最後まで手を上げていた仮面に近付いた。
 決まって、しまったのか。
 とうとう本体が仮面の手に渡った──その時だった。
男がギョット目を見張る。
 目の前の仮面をマジマジと見つめ、そして雷鳴の如く叫んだ。
「■■■!」
 男が手を振り上げた。面が弾かれる。やけにスローモーションに見えた。顔から外れたその裏には、大量の札が貼ってあった。
 見覚えがある。封じの札だ。現代に遠征へ行く際に、付喪神としての気配を消すための。
「バレ■■■■■」
 カツン、仮面が床へ着地した。押し込められていた黒髪が踊る。金色の瞳がひとつ、きゅうと細められた。
「■■、これなら想定内だ」
 呟いて麗貌が笑みを作り、そして──こちらを見た。
「『迎えに来た』よ、長谷部くん!」
 パリン。
 頭の中で、封が弾ける音がした。


 合言葉と共にへし切長谷部を投げ渡す。
 見開かれた紫がしっかりと軌道を捉え、過たず自分自身を受け止めた。キンとした神気が彼に戻る。
 抜刀までは一瞬。
 ぬらり、濡れたような皆焼刃が閃いた。
 筈、だった。
「〈STOP(やめろ)〉!」
 ギチ、と切っ先が止まる。
「■、■!!」
 殺意に染まった声で、長谷部が食いしばるように呻く。
 男の喉から赤い線が流れ落ちた。だが浅い。薄く皮膚を切っただけに留まった。恐怖に引き攣った顔で男が後ずさる。間髪入れず燭台切が踏み込んだ、が。
 ギイン!
 鈍い音。弾かれた、と判断すると同時に間合いを取る。
「は、堕ちるとこまで堕ちてるねえ」
なんとも覚えのある感触だ。男の背後から刀が突き出ている。禍々しい気配が立ち上る。赤い陽炎のように揺らめく空間の狭間からぞろりと湧いて出たのは、紛うことなく遡行軍だった。
「ひっ」
「おい、聞いてないぞ!」
 他の仮面たちが騒ぎ出す。腰が抜けているのか這いずるようにもがいている。なんとも無様だが彼らにも聞きたいことが山ほどある。
「そこの人間達みたいに地面に手を付くなら、命だけは助けてあげるなくもないけど。どうする?」
 嗤ってみせれば男の濁った眼が燭台切を見据えた。空気が重くなる。Glareだ。酷く強烈なそれは、這いずっていた仮面たちを、遡行軍をも委縮させた。ランクの高いDomのGlareは、Normalはおろか格下のDomですら跪かせるという。
「どいつもこいつも! たかが物風情が!」
「ッ、」
 強い。
 何もかもを抑えつける支配。ただその意識だけが燭台切をも取り込もうとしていた。燭台切のGlareも決して弱くはない。しかし、Dom同士であればより強いDomが勝つ。
「〈Go(行け)〉!」
 男が怒声を上げる。遡行軍がズルリと動き出した。
 気を抜けば膝をついてしまいそうなGlareを自身のGlareで打ち消しながら、燭台切は刀を構え直す。負けるわけには行かない。
 と、男の向こうでぐらりと長谷部が揺れるのが見えた。戦意は消えていないながらも刀を握る手が覚束ない。男のCommandに従おうとする体を気力だけで制し、浅く息を繰り返している。その唇が小さく動いた。
 ──しょくだいきり
 ふつり、湧いたそれが怒りだと一拍遅れて気付いた。
「人間如きが、舐めるなよ!」
 轟。
 殺気に質量があればそんな音が聞こえたかもしれない。
 気付いた気には既に刀を振り切っていた。ぞぶりと肉が断たれ、遡行軍の一体が地に崩れる。それはDomの本能のdefenseであった。己のSubを害され、怒りで理性が焼かれる。
 凶刃が迫りくる中、更に踏み込む。ド、ゴヅ、大太刀の腕が落ちる。脇差の頭が柄で抉られる。邪魔だ、邪魔だ! お前たちじゃない!
 アイツを、あのDom消さなければ!
「ひ、い、〈行け〉!」
 何もかもかなぐり捨て男が吠えた。重ねてのCommandに、耐えきれず長谷部の切っ先がこちらに向く。
 遡行軍の最後の一体が血溜まりに落ちた。
 その先で、長谷部が正眼に構えている。けれど、切り結ぶ前に舌でも噛みそうな顔色だ。
 ふ、と冷静な自分が帰って来る。
 ちがう、そんな顔をさせたかったんじゃない。
「止まって」
「〈行け〉!」
「長谷部くん、」
 目が合う。その唇がもう一度燭台切の名を呼んだ。ねだるように。
 はっと燭台切が息を呑む。
 ひとりのSubにふたりのDomが同時に命じた場合、通常であればランクの高いDomの命令が実行される。
 それを覆えせるとすれば、何だろうか。
 陳腐だが、信頼の差。それから。
 燭台切が構えを解く。長谷部の口が弧を描いたのと、燭台切の黒手袋が〈親指で己の首を掻き切る動作〉をしたのは同時だった。
「TAKE(とっておいで)」
 トン。
 地を蹴った音がした。
 ゆっくりと瞬き一つ。次に目を開ければ、噴水のように赤を撒き散らす男の身体が転がるところだった。
 乱雑に髪を掴み上げ、首級を携えた長谷部が歩み寄って来る。
 二振りだけのCommandはいくつもある。それは必ず動作や音であった。他の誰にも使わず、通じず、ただ長谷部と燭台切のためだけのCommandだ。他のDomが入り込む余地は無い。
 今回のは、戦場で戯れに行うようなものであったけれど。
 目の前までやってきた長谷部が燭台切を見上げる。その目にもう恐怖は無い。浮かぶのは純粋な期待だ。頬に付いた返り血を指で拭う。
「いいこ。よく頑張ったね」
 ぽすんと燭台切の胸に長谷部は顔を埋めた。その背を抱きしめ撫でてやれば、温かい充足感が胸を満たした。
 しかし、それも束の間。
 ドン、と地響きがした。
 途端、先程倒したばかりの禍々しい気配が充満する。いや、数で言えば先程の比ではない。
「まずいな。あの審神者擬きが死んだら全部消すつもりだったのか」
「あの■■■■■■、■■■しょくだきり■!」
「僕? ……のことじゃなさそうだね」
 敵の気配が濃くなる。距離だけならまだ遠い。建物の外だろうが、包囲されているか。
 脱出だけならば容易いが、そこで気を失っている仮面たちを確保しなければならない。それに、長谷部が伝えようとしている燭台切というのは、もしや。
「!」
 長谷部が刀を構えた。燭台切も続く。鋭い殺気、 荒い足音が近づいてくる。
 けたたましいを音を立てて襖が蹴破られた。
「御用改だオラァ!」
「か、しゅうくん!」
「あ、なんだ、終わってんじゃん。やほー。長谷部無事?」
「■、■■、なんとか」
 ひらひらと手を振る清光にふたりして深く息を吐く。
 援軍一番に乗り込んで来たらしい我らが初期刀は、床やらDomの残骸やらを眺め、派手にやったねとぼやきながら仮面の1人をひょいと持ち上げた。
「他にも来てるから、後は任せなよ。ゆっくり休んで……お、っと」
 更に一振り。風のように飛び込んで来た。勢いを殺しきれずたたらを踏んだのは、見覚えのあるへし切長谷部だった。
「アイツは」
 縋るような視線に、こちらの長谷部が素早く返す。
「ちか■」
「地下だって」
「礼を言う!」
 再び疾風のように去って行く。
 正直なところ、燭台切は同位体が疾うに売られたと思っていた。あの長谷部もそうだったかもしれない。それでも一縷の望みにかけて此処まで来た。彼の戦いも終わりを迎えるだろう。最上級のハッピーエンドだ。
「おれ■■■、あのしょくだいきり■れい■■■■■■■■■■」
「いま行くのは野暮だし、あんまりの僕じゃない燭台切のことは気に掛けないでほしいな」
「はいはい、イチャついてないで早く帰んなよ」
 こうして、Sub男士失踪事件、そして本丸襲撃事件の一端は収束したのだった。

 


    ◆ ◆ ◆

 


「でね、首級持ってきた長谷部くんがそれはもうかっっっわいかったんだよ!!!」
「わかったわかった、わかったから少し声量を落とそうな光坊」
「なんで? この世に長谷部くんの可愛さより主張しなきゃいけないことってある?」
「おっと、こいつは鶴さんの手に余るタイプのなぜなに期だ」
 麗らかな本丸の午後。近くの部屋にも響きわったったであろう盛大な惚気の主は、この本丸の古株、燭台切光忠だ。
 普段はスマートに決める彼も恋刀にかかればこの通り。次々と撃ち出される「長谷部くんがかわいいエピソード」に苦笑するも、鶴丸は頬杖をついたまま聞く姿勢を崩さない。この程度の惚気であれば可愛いものだ。
 それでね、と更に長谷部に関する何事かを口にしようとしたらしい燭台切は、しかし黄金の瞳をくるりと回し部屋の外を探った。数拍遅れて鶴丸の耳にも近付いてくる足音が届く。トストスと軽やかなそれは、脇差よりは重く太刀よりは身軽だと知れた。
 障子に影が映る。
「しょくだいきり、■■■?」
「どうぞ」
 甘やかな声で燭台切が応えれば、すらりと戸が滑る。
「よっ、光坊のかわいい長谷部くんじゃないか」
 噂をすればなんとやら。黒のケープを揺らし立っているのはへし切長谷部だった。
 つい口から転び出た揶揄に鋭い眼光が突き刺さるが、燭台切曰くこれも「かわいい」のだそうだ。なお、事ある毎にかわいいかわいいと連ねる燭台切の言動のせいで、一時期『かわいい』という音が自分の名前だと思っていた過去がある為、この単語には大変厳しい。
「まあ座れ。俺はそろそろしょっぱい物をつまみに行きたいんだ」
 空いている座布団を叩いて見せる。茶化しはするが馬に蹴られる趣味はない。長谷部が来たならここは譲ってやろう。そんな気遣いから鶴丸はどっこらしょと爺臭い掛け声と共にちゃぶ台に手を付く。が、腰を上げる前に長谷部が制するように掌をこちらに向けた。
「ん、どうした」
 首を傾げれば、長谷部は燭台切を見て今しがた来た方向を指差した。
「あるじ■■■■■■」
「主? そっか、呼びに来てくれてありがとう」
 こくりと長谷部が頷く。
「主が呼んでるみたいだから、ちょっと行ってくるよ。話をきいてくれてありがとう」
「はは。次の厨当番の時は期待してるぜ」
「任せておいて」
 立ち上がった燭台切は〈己の腕を二回叩く〉。ごく自然な動作でするりと長谷部が腕を絡めた。いいこだね、と囁いてキスをひとつ落とすと途端に硬質なアメジストが蕩ける。
 連れ立って退室する背中を見るともなしに見送り、鶴丸は大きく背伸びをした。あそこまで甘さを醸し出せるのはいっそ感心する。うーん、塩辛いものが食べたい。
 ふたり分の足音と燭台切の声が遠ざかっていく。
「何の用だろうね。え、四角い……本? あっ! 頼んでたカタログが届いたんだね。あの、その、驚かせたらごめん。実はCollarを君に……」
「……あいつら、まだCollar贈ってなかったのか」
 うっそだろう。こいつは驚きだ。加州に連絡しよう、それから宗三と、いっそ本丸の全員にでいいか。
 驚き、いやサプライズの予感に鶴丸は胸を弾ませた。なにせこの平和な本丸には事件など滅多にないのだ。
 歴史修正主義者と戦うのも、ちょっとばかり癖のあるDomとSubがいるのも、そこいらの本丸と何も変わらない。もし特徴を挙げるとするなら、燭台切と長谷部の万年蜜月っぷりくらいだろう。彼らの前では謀反者も遡行軍も形無しだ。
 つまるところ、すべて世は事も無し、である。

 

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