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恋心は免罪符になり得るか

しんなりおでん

 騒音が止む。口汚くわめき散らしていた男は崩れ落ち、それきり動かなくなった。薄っぺらい笑顔を貼り付け、周囲に謝罪と一礼をする。慣れたスタッフに後始末を任せ、僕は取り残された被害者に向き直った。

「対応が遅れて申し訳ありませんでした。お怪我はございませんか」

 返事の代わりにアッシュグレーの髪が左右に揺れる。こちらを見上げる相貌を眺めてみれば、なるほど人並み以上に整っていた。細身だが上背があるので華奢という印象は受けない。一男性として申し分ない体躯を持ちながら、その首元から下がるストラップの紐は青い。つまり彼もまた、僕とは別の世界に生きる人種だ。

「ありがとう、ございます。お陰様で助かりました」

「ご無事でしたら何よりです。こちら当店からのサービスです。引き続きお客様に良き出会いがありますよう」

 用意させたジントニックをテーブルに置く。顔役として一応の責務は果たした。待ち人もいる。早々にお暇したいところが、背中に刺さる視線と引き留める声がそうさせてくれない。

「あの、長船さんですよね」

 思わず舌打ちしかける。見慣れぬ顔だと油断していた。有事以外では表に出ないため、常連でも僕を知る者は少ない。接客は勤務条件から外れるが、仮にも責任者がおざなりな対応をするわけにはいかないだろう。

「ええ、私をご存じとは珍しいですね。もしかして本日は誰かにご紹介されてこちらに?」

「あ……いや、そう、ですね」

 なんとも歯切れが悪い。さっきは強引に迫ってくる相手にも臆する様子は見せなかったのに、この変わりようはいかがなものか。即答しかねる後ろめたい事情でもあるのか。とはいえ、生憎とこちらも心当たりが多すぎる。幸い彼は色々と顔に出やすい質らしい。鉄砲玉の線は心配しなくてよさそうだ。

「今日は鶴丸、さんに呼ばれてこちらに」

 飛び出した人名に面食らう。驚いた理由はいたってシンプル。僕が今晩この店を訪れたのも、件の鶴丸国永に呼ばれたからに他ならない。

 白木の鞘を握り直す。驚きを至上とする義兄の悪癖はいまだ健在のようだ。

 

「久しぶりだなあ長谷部! いや元気そうで安心したぜ」

 遠慮なしに背を叩かれ、青年――長谷部くんはあからさまに顔を顰めている。鶴さんの口ぶりから察するに、二人はそこそこ長い付き合いなのだろう。萎縮していた客人も、歓迎の挨拶を受けてか大分肩の力が抜けていた。

「お前を待っている間に危うく傷害事件の被害者になるところだったがな」

「ははん、どうりで光坊が物騒なものぶら提げてるわけだ。あれで居合の有段者なんだぜ、今度見せてもらえよ長谷部」

「いいから早く本題に入ってくれ鶴さん」

 脱線しがちな年長者を窘め、先を促す。こと今回ばかりは四方山話に興じるつもりはない。

 鶴さんは僕の過去を知っている。その彼がわざわざSubの第三者をこの場に招いた意図を考えてみろ。鶴さんには幼い頃から世話になっているし、信頼もしているが、安心できるかといえば話は別だ。

「なんだ随分とせっかちだなあ。なに話は簡単だぜ、今日から一週間くらい光坊の家に長谷部を泊めてやってくれ」

「はっ?」

 疑問の声がぴたりと二人分重なる。これで向こうも初耳だというのが判った。さすがは鶴さん、良くも悪くも全く行動が予想できない。言うまでもなく今回は後者の方だ。

「色々と突っ込みたいところはあるけど、どうして僕の家なんだい」

「悪い悪い。本当は俺の家に来てもらうつもりだったんだが、ちょっと掃除が間に合わなくてな!」

「じゃあ彼には悪いけど一週間くらいホテルに泊まってもらって、その間に片づけたらいいんじゃないかい」

「不自由はしないだろうが、それだと護衛がいなくなる」

 思わぬ反駁にしばし言葉を失う。暗にホテルのセキュリティでは不足と告げられ、つい青年の横顔を盗み見てしまった。確かに非凡な容姿をしているが、彼から同職の匂いはしない。この時点でもう次の展開が読めた。堅気の人間が護衛を求める状況なんて大概パターンが決まっている。

「ちょっと質の悪いストーカーがついたらしくてな。人助けだと思って協力してやってくれないか?」

 警察に任せようよ。僕が普通の家庭に生まれていたら、そう冷静に切り返せたかもしれない。己の出自を悔やんだのはこれで何度目だろう。どうせ食べたパンの枚数より少ないから構いやしないが。

「だからって別に僕の家でなくてもいいじゃないか。うちにいる若い子に頼めば一週間ぐらい」

「光坊、光坊」

 手招きされたのでカウチから身を起こす。耳を貸せば、この前の件一つ貸しだったよな、と実に軽い調子で囁かれた。距離をとった鶴さんは相変わらず人好きのする笑顔を浮かべている。とんだ狸だ。端から僕に拒否権など与えられてやしない。お飾りの若僧にできるのは、我が組きっての古老に粛々と首を垂れるのみである。

「やったなあ長谷部、無事に話はまとまったぞ!」

「無事ではないと家主の顔が語っているんだが」

「歓迎するよ長谷部くん、僕の料理で度肝を抜いてあげるから楽しみにしててくれ。だとよ!」

「声真似上手いなお前」

 一芸を披露する元凶とその知人を遠巻きに嘆息する。

 冗談じゃない。どうして僕がいまさら他人と一緒に暮らさなくてはいけないのか。

 しかも、よりにもよってSubとだなんて、悪い夢でも見ているに違いない。現実の僕はきっとまだ中学二年の冬を過ごしているはずだ。

 青春を謳歌する若者は知らなかった。世の中には生まれついての縛りに悩まされている人がいること。彼らに寄り添うことはできても、真に理解はできないこと。大事な親友が、己を戒め続けた末に壊れてしまうことを。最後まで対岸の火事を気取った若者は、ひたすらに無知で無力で、この上なく愚かだった。

「長船さん」

 凛とした声が過去の幻影を断ち切る。眼鏡を掛けた黒髪の少年はどこにもいない。僕を呼んだのは、日本人離れした藤色の瞳を持つ青年だった。

「これからどうか、よろしくお願いします」

 七日間だけの同居人が深々とお辞儀する。彼とはまるで雰囲気が違うのに、ところどころ頑固に跳ねる癖っ毛が、ありし日の記憶と結びつかせた。

 

 長谷部国重、二十六歳。先日まで大手の商社に勤めていたが、取引先の担当にいたく気に入られ、ヘッドハンティングを受ける。最初は大人の対応で躱していたものの、アプローチは次第に激化し、遂には自宅や外出先に押しかけられたという。無論警察に届け出たが、「証拠不十分」により相手は厳重注意に留まったらしい。

 まあよくある話だ。ルールには抜け道がつきもので、法治国家では親の顔よりよっぽど馴染み深い。初日の件といい、どうも長谷部くんは厄介事に好かれる体質のようだ。あるいはSubという特性が人の支配欲を駆り立てるのだろうか。あのとき彼を襲っていたのもDomもどきだった。薬で自制心を失っていたとはいえ、付け焼き刃の性すら惹きつける彼のダイナミクスは相当強いと見える。

 さて場所を店から自宅へと移し、向こうの身の上話も聞いた。ここからは過去ではなく今後の話をしなければなるまい。

「何にせよ、一緒に暮らすならいくつかのルールに従ってもらうよ」

「わかりました」

「まずはそれ。同い年なんだから敬語はよそう。さん付けも要らないよ」

「でもこれからお世話になる身ですし」

「堅苦しいのは嫌いなんだ。敬語だと職場にいる気分になるしね」

 嘘は言ってない。鶴さんだって名目上は僕の部下に当たるけど、もし彼に畏まられたら確実に笑ってしまう。ただそれ以上に、Subとの間にかりそめでも立場の差を設けたくなかっただけで。

「わかりま……わかった」

 渋々ながらも長谷部くんは頷いてくれた。不平ごと呑み込むようにカップの底を傾け、白い喉仏を波打たせている。ミルク一つにシュガー二本。見た目に反して甘党らしい。

「あと安全が確保できるまで外出は控えること。どうしてもと言うなら僕か鶴さんに相談してくれ」

 住まいを移してなお警戒しろとのお達しだ。彼には不自由を強いてしまうが、トラブルの種は事前に摘み取っておくに限る。長谷部くんはあっさりと承諾した。軟禁への抵抗が失せるくらい厄介な相手なのだろう。つくづく薄幸の美青年だと同情を禁じ得ない。

「この二点を守ってくれたら後は好きにして構わないよ。必要なものがあれば用意させるし」

「ありがとう。だが屋根と寝床さえ確保されていれば特に問題はない」

「薬は? 足りてるのかい」

 問われて、長谷部くんは僅かに眉を動かした。不快というより困惑の度合いが強いと見て、さらに言葉を付け足す。

「抑制剤。特定の相手がいるようには見えないし、必要なんじゃないかな」

 スタッフ曰く、DomやSubにも相性があるらしい。ただえさえダイナミクスを自力で発現させている者は稀だ。そこからPlayの好みが合致する相手を探すとなると、宝くじに当選する確率に匹敵するという。だからこそ、ホルモンを人為的に操作できる薬は需要が絶えない。

 かつて人類は伴侶とは別にダイナミクスのパートナーを選んでいた。単に性欲を吐き出すだけでは、DomやSubの求めるものは手に入らない。割れ鍋に綴じ蓋、DomとSubの欲求を満たせるのはお互いだけである。かくして性の不一致による姦通は肯定され、法に守られた。

 しかし大衆の多くはダイナミクスを持たず、その衝動を知らない。仮にパートナーの不貞を詰れば、反って自らの狭量さを責められることになる。Normalが異性と結婚して長続きした例は少ない。離婚調停が相次ぎ、弁護士たちが過労で眠れぬ夜を過ごす中、その新薬は発表された。陰性のダイナミクスを誘発させる。ホルモンバランスを数時間ほどコントロールできるだけの薬は、まるで疫病の特効薬のごとき歓迎を受けた。この薬を用いれば、誰もがDomにもSubにもなれる。生涯を誓った相手に唯一を約束することも、好奇心から見知らぬ世界に足を踏みれることも許される。まさに夢のような薬だった。

「薬だけじゃ足りないって言うなら、店への送迎も手配するけど」

 後付けの性と違い、長谷部くんのは本物だ。ダイナミクスの抑制剤はどこの薬局でも処方できるが、これらの発露は言わば生理現象に当たる。とりわけ二十代前後のホルモン量は突出している。薬にばかり頼るのも身体に毒と聞いた。彼ほどの美形なら相手には困らないとしても、万が一が起きると困る。

 Normalなりに気遣ったつもりだが、長谷部くんの顔色ははかばかしくない。やはり踏み込みすぎたか。とはいえ、僕は一応彼を庇護する立場なのだから、体調面については把握しておくべきだろう。

「薬だけで足りる。今までも何とかなっていたし、行きずりの相手とワンナイトする度胸も無い」

「へえ、純愛派なんだ」

「色気が服着て歩いてるような男には無縁の考えだったか」

 非難がましい視線がこちらを射竦める。あからさまでないにしろ、僕にあまり隠す気が無いから当然かもしれない。

「はは、こう見えて僕も一途な方でね。昔の初恋をひきずって、独り身を貫いてると言ったら笑うかい?」

「物憂げで口元にホクロのある未亡人にでも惚れてたのか」

 偏見に富んだ予想は面白いが、下手に返して話題が広がるのも面倒だ。ここは長谷部くんの神経が存外図太いとわかっただけで十分としておこう。

「さてね、ご想像にお任せするよ」

 

 

    ◆ ◆ ◆

 

 

 件の新薬が開発されたのは、僕が中学に上がって間もない頃だった。国民がダイナミクスの検査を受けるのは第二次性徴期、その認識は保健体育の域を出ない。忙しない思春期を生きる彼らには、世紀の発明よりクラスの交友関係の方がよほど大事件だった。

 長船光忠は優等生と評しても差し支えない子供だったろう。成績は常に上位で、協調性も高く、スポーツでも結果を出した。誰とでも仲良くできたし、分け隔てなく皆に平等に接した。そうせざるを得なかった。小学校からの友人は僕がどういう家の生まれなのか知っている。仲間はずれにはするな、ただ深入りもするな。親御さんから厳しく言い含められているのか、表立って僕を腫れ物扱いするクラスメイトはいなかった。

 放課後の教室は騒然としている。部活の話や遊ぶ約束で盛り上がる周囲を余所に、僕は一人帰り支度を進める。既に校門には迎えが来ているはずだ。通学路に不釣り合いな高級車は、これまで僕の友達を乗せたことは無い。

「光坊は好きな子とかいないのか」

 不意に運転席から質問が飛んでくる。組長の懐刀である鶴さんは僕の兄代わりでもあった。父は多忙で、母は幼い頃に亡くなっていたから、今も昔も身近な大人と言えばこの人になる。

「ヤクザとお近付きになりたいって女傑に会った試しは無いね」

「こらこら、家のせいにするのは格好悪いぞ。男なら裸一貫で勝負してこそだろう?」

「せめて勝負する機会くらい与えてほしいものだよ」

 真っ当な友人すら作れていないんだ。恋だの愛だの騒げる余裕があるはずもない。

 後部座席から流れる景色をぼんやり眺める。横並びに歩く学生たちの背がみるみる遠くなっていった。豆粒ほどに縮まった影がその上体を曲げる。届くはずもない笑い声が聞こえた気がした。

 僕が秋雨につられて懊悩を抱える中、隣の教室は季節外れの転校生を迎えていた。

「親が転勤族なんだって」

 さすがにクラスが違うと接点も少なく、彼への印象はほぼ噂話で形作られた。黒髪に黒縁眼鏡、性格もあまり社交的とは言いがたく、休み時間は専ら本を読んで過ごしている。口さがのない級友は陰キャじゃん、と眉根を寄せていた。無邪気な悪意の飛び交う窓際で、僕は内心別のことを考えていた。

 引っ越したばかりで土地勘もなく、町の事情にも疎い。転校生の彼ならもしや、とほのかな期待が胸中で芽吹いた。隣と合同で行う体育の授業、誰ともペアを組んでいない黒田くんを誘ったのは、そういう下心があってのことだ。

 結論から言うと、黒田くんは引っ込み思案でも人見知りする質でもなかった。

「ははっ、左がお留守だぞ長船」

 鋭い一球がコートの端に叩き込まれる。隙を突いたはずの反撃は、たちまち黒田くんの俊足を魅せるための前座と化した。おかしいだろ。さっきまでネットに張りついてたのに、どうしてベースライン近くの球を拾えるんだ。

「文学青年より陸上部のエースを目指したらどうだい」

「残念ながら、いつまで同じ学校にいられるか判らない身なんでな」

 だから部活には入らないし、親しい友も作らない。黒田くんは笑って言った。親の都合に振り回される可哀想な少年を、僕は勝手に己と重ね合わせていた。

 始まりは打算で、その次に抱いたのが一方的な共感だと知れたら、彼は僕を軽蔑するだろうか。それでも、この風変わりな転校生に近付きたいという気持ちは、抑えようがなかった。

「僕たち、結構気が合うんじゃないかな」

「冗談」

 僕なりの口説き文句を一笑に付し、黒田くんはコートを出る。見事に袖にされ諦めがつくかと思えば、むしろその逆だった。ああ、次の授業なんてとても待っていられない。沸々と燃えたぎる闘志に任せ、すらりと伸びた背を追う。

 これが後に親友となる黒田くんとのファーストコンタクトだった。

 

 

    ◆ ◆ ◆

 

 

 久々に二人分の食事を作り、気付いたことがある。今の冷蔵庫の中身では到底三日も保たない。

「買い出し行くかあ」

 こうなると調味料も補充しておきたいところだ。台所のキャビネットをあれこれ探っていると、シンクを叩く音が止まった。水切りかごには使用したばかりの食器類が全て並んでいる。

「荷物持ちなら手伝うぞ」

「ストーカーからの逃亡者という自覚はお持ちかい?」

「だが家主に全て投げっぱなしというのも落ち着かない」

 長谷部くんについて解ったことも一つ挙げておく。勝ち気な口調とは裏腹に、この青年は存外義理堅い。宿を借りている身だからと、客人にもかかわらず今も皿洗いに勤しんでいる。楽にしてくれという僕の意見は、長い論争の果てに持ち込まれたじゃんけん勝負で黙殺された。

「そこは我慢してくれよ。家ならともかく、外に出たら僕だって身の安全は保障できなくなる」

「と、返すだろうからと既に援護射撃を貰っている」

 手を拭いた長谷部くんがキッチンとダイニングを往復する。目的は携帯だったようで、戻るなり僕にトーク画面を見せつけてきた。

「囮作戦だ光坊!」

 鶴のアイコンが観念しろと液晶越しに語りかけてくる。語尾の顔文字に若干苛つくものの、これで留守を頼めば後日何を言われるか判ったもんじゃない。

「はあ、わかったよ。極力僕から離れないようにね」

「期待してるぞナイト様」

 ここぞとばかりに長谷部くんが口角を吊り上げる。随分と不貞不貞しい姫君だ。SubよりDomの方が似合うんじゃないか彼。

 

 鼠を燻りだすなら近場より繁華街の方が良い。食料品は帰りに回すとして、先に長谷部くんの衣類を揃えることにした。身軽さを優先した関係で、自宅からあまり荷物を持ってこれなかったらしい。

「あっ新作出てる。少し寄っていっても構わないかい?」

「お前これで何件目だ」

「君の分も見るんだよ。まだ一着しか買ってないじゃないか」

「外を歩くときの服なんて一着あれば十分だろう」

「ようし強制連行だ」

 渋る長谷部くんの腕を引き、店内へと連れ込む。ほぼ見てるだけの彼に服を宛がい、ああでもないこうでもないと吟味を重ねた。何しろこれだけの逸材だ。顔もスタイルも上々で実に選び甲斐がある。真面目そうな雰囲気を活かすも良し、敢えて崩してギャップを演出するのも悪くない。

「いくつか候補を見繕ってきたから試着お願い」

「候補って言葉は的を絞れたときに使うんだぞ、いいか」

 服の山に埋もれた長谷部くんが試着室へと入る。何だかんだ付き合ってくれるあたり人が良い。ただしカジュアル系は本人の強い反対に遭い、お披露目すら叶わなかった。誠に遺憾である。

 会計を済ませ、店を出る頃には日が傾いていた。客層に仕事帰りのリーマンが増えつつある。本来なら混雑を避けるところだが、敢えて今日はエスカレーターに乗り込む。長谷部くんに先を譲り、一段分の差を隔てながら僕らはゆっくり階下へと進んでいった。

「良い買い物をしたね」

「俺の顔を見てもそう言えるなら大したもんだ」

「ご不満かい? 物足りないなら別のお店も見ていこうか」

 たとえば、と繋げて間を置く。ちょうど正面に宝飾品の売り場が見えた。長谷部くんが貴金属を好むとも思えない。視線をずらす。奥側の柱を切り取る形で展示スペースが設けられている。並んでいるのは革製のバンド。チョーカーより太く、丈夫な素材を用いたそれは、さぞかし人の首に映えることだろう。

「あれなんかどうかな。僕から君に」

 少し屈んで、煤色のつむじに唇を寄せる。長谷部くんの頬にさっと朱が差した。それが怒りか羞恥故かはともかく、演出としては上々だ。

「実際釣り出す餌には使えそうだけど」

 周囲には聞こえないよう声を絞る。もし敵が長谷部くんの性を知っているなら、パートナーの存在を匂わすのも手だろう。

「悪いが」

 エスカレーターが途切れる。首輪を求める若者たちには目もくれず、長谷部くんは足早に下のフロアへと向かっていった。

「俺は誰からのCollarも受け取る気はない」

 どうやら僕はふられたようだ。演技とはいえ何だか面白くない。

 しかし、一夜の関係は求めず、特定のパートナーも作らないで、彼はどうやってSubの欲求を満たしていくのだろう。薬で凌げるほど容易い業でないことは僕だって知っている。

 疑念に駆られはするが深入りはできない。仲睦まじい「友人」らしく、僕はこちらを一顧だにしない背中を追った。

 

 

    ◆ ◆ ◆

 

 

 黒田くんは良くも悪くも物怖じしない。公立中には場違いな外車、正門からして厳めしい屋敷、床の間に鎮座する刀掛け。語らずして稼業の窺える長船家にあって、僕の学友は好奇心を隠そうともしなかった。

「あれ本物なのか」

「らしいよ。試し切りでもするかい?」

「いいのか? お前の腹は一つしかないんだぞ」

「なにゆえ僕のお腹が巻き藁ポジに収まってるのかな?」

 初めての真剣に黒田くんは興奮しきっている。長い刀身を膝に抱え、鞘を払おうと四苦八苦しているが、一向に鯉口は切れない。まあ子供部屋に刃物を置くんだ、簡単に抜けたらお話にならないだろう。

「なまくらめ」

 渾身の負け惜しみである。今ここに現代のイソップ物語が誕生した。

「まあまあ、採り損ねた葡萄のことは忘れよう。長船家の見所は他にもあるから」

「清純派で売ってる女優が昔出演してたAVとか?」

「本棚に熱い視線を送っても僕の性癖がまろび出たりはしないよ」

 教科書に問題集、学校で流行っている漫画の単行本、あとは雑誌をいくらか。大半が話題作りの為に集めたものだ。きっと本棚の中身はそこらの中学生男子と大差ない。

「料理本多いな」

 あ、と驚きから声が漏れる。黒田くんが一冊の本を手に取った。角がところどころ折れ、開き癖もついたレシピ本は、初めて自分の為だけに購入したものだった。

「作るのか?」

「たまにだけど。まだ人様にお出しできるような腕前ではないかな」

「じゃあ調理実習までに極めておいてくれ。俺は片付けで挽回するから」

「チームワークって何だったかな黒田くん」

 苦笑いを浮かべたつもりだが、果たして頬の筋肉は思い通りに動いたかどうか。だって仕方ないだろう。黒田くんの中で、僕と同じ班で活動することがもはや当たり前になっている。昨年の自分が聞いたら、嫉妬のあまり悶絶すること請け合いだ。

 あれから季節は秋、冬と経て、春になった。目を皿のようにして名簿を調べ、長船と黒田が同じクラスの欄に収まっていたときの喜びといったら! その場で叫ばなかった自分を褒めてやりたい。

「お、俺これが食べたい」

「オムライスか。いいよ、とろっとろの卵を載せてあげよう」

「頼もしいな。将来良い嫁になれるぞ」

「黒田くんは亭主関白になりそうだね。例の検査でもDomって結果が返ってきたりして」

「検査……ああ、来週にやるやつか。ダイナミクス持ちって全体の5%くらいなんだろう? 消費税より少ない割合が当たるとは思えんな」

 親友お得意の身も蓋もない表現に肩を揺らす。今の僕らにとって第二の性は雑談の種に過ぎなかった。現に僕は誰かを支配しようとも、誰かに所有されたいとも思った覚えはない。調べるまでもなく、僕の性はNormalなのだろう。

 黒田くんがページを捲る。紙の擦れる静かな音が耳に心地良い。野暮ったい前髪と眼鏡のせいで目立たないが、彼の振る舞いには端々に気品が感じられる。敢えて言葉にするなら清廉と言うべきか、とにかく彼からは性の匂いがしない。勿論、年頃らしく下世話な話題で盛り上がった記憶はある。それでも、猥談に耽るクラスメイトと黒田くんとでは、何か根本的に違う生き物のような気がしてならなかった。さっきはDomじゃないかと揶揄ったけど、彼がダイナミクスに振り回される姿なんて想像もつかない。

 ――そんな黒田くんが、もしDomやSubだったら?

 馬鹿馬鹿しい。性が違ったぐらいで友達との接し方を変えるものか。

 理性は人として当然の答えを導き出す。しかし本能は拭いきれない不安や警戒を訴えていた。洗ってもなお残る鍋底の焦げのような、小さな違和感ではある。ただ意識してしまった以上、この汚れを無視することはできない。

 だから梅雨入りより前、渡された茶封筒を開くときは心底緊張した。自分の結果は予想に違わず、Normalという診断だった。問題は黒田くんの方で、一限目が終わるなり僕は脇目も振らず彼の席に走った。

「何を期待したか知らんが、面白い結果にはならなかったぞ」

 あのとき、頬杖をつく親友の微笑に僕がどれほど救われたことか。

 飼う側のDom、飼われる側のSub、いずれのダイナミクスでもパートナーの存在は大きい。さらにこの二つの性は多かれ少なかれ禁断症状を伴う。仮に薬で抑えたとて、長期に渡り相手が不在であれば心身ともに消耗は避けられない。

 黒田くんには自由でいてほしかった。友人作りすら躊躇う少年にこれ以上の制約を課すなんて、そんな世界は間違っている。

 実際には黒田くんもNormalだった。残念、と返した声は我ながらわざとらしかったと思う。

「Domじゃないなら亭主関白の理由付けにもならないね。調理実習頑張ろうか」

「俺が握りたい刃物は刀だけだなあ」

「包丁の扱い方を覚えたら師範に掛け合ってみるからさ」

 ああ、やっと日常に戻ってこれた。いつものようにふざけあって、僕らの関係が何も変わってないことをようやく実感する。

 友人の肩越しに窓の水滴が見えた。いつのまにか教室の喧噪に雨音が紛れ込んでいる。癖っ毛の僕にとっては憂鬱な時期だが、それもあと一月の辛抱だ。梅雨が終われば夏が来る。そう、親友と過ごす初めての夏だ。

 夏休みは何をして遊ぼう。黒田くんとスイカを食べたり、プールに行ったり、一緒に宿題をやったり、してみたいことは沢山ある。

 充実していた。こうして振り返ってみても、中二の夏ほど全てが眩しく輝いていた時期はない。

「来年こそは勝つ」

 射的のスコア争いは僅差で僕の勝利だった。黒田くんは口を尖らせてリベンジを誓い、僕も一年後の再戦を楽しみにしていた。

 僕たちに二回目の夏休みは訪れなかった。

 

 兆候はあったのかもしれない。ただ幸せの絶頂にあった僕は、その可能性を端から度外視していた。

 初雪から二週間ほど経った冬の日。親友の部屋は噎せ返るような精の臭いで満たされていた。ベッドの下には脱ぎ散らされた服の山が、皺だらけのシーツは体液に塗れて惨憺たる有様である。

 黒田くんは一糸纏わぬ姿で、僕に全てを晒していた。呼吸のたび上下する胸には多数の噛み跡がついている。手首や腰には痣が残り、ついさっきまで男を咥えていた後孔からは白濁が垂れていた。

 掌は今も彼の体温を覚えているのに、感情は全く現実に追いついていない。

 僕は親友を犯した。熱に浮かされ、目の前の肢体を嬲り、黒田くんに対して主人のように振る舞った。いや間違いなく一時間前の僕らには主従関係が成立していた。彼に口淫を命じ、服を脱ぐよう促し、自慰を強いたのは他でもない僕だ。そして黒田くんは僕の命令を喜々として承諾した。彼は悦んでいた。

 つまり勘違いしていたのは僕の方だ。黒田くんは一度だって、自分をNormalとは言っていなかったじゃないか。

 身を包んでいた狂気は薄れつつある。とにかく話を聞こうと身を乗り出した矢先に、ぷつんと意識が途切れた。

 僕が薬の副作用から目を覚ましたときには、全てが終わっていた。

 黒田くんは三学期を前に転校し、後日届いた手紙を皮切りに、彼と連絡を取ることは叶わなかった。先生や家の者に尋ねても、引っ越し先は教えられないの一点張りだった。理由は単純で、向こうが望んでいないから、という。

 ふざけるな。僕はまだ何も訊けていない。どうしてSubであることを黙っていたのか。どうして僕に薬を盛ったのか。どうして別れの挨拶もさせてくれなかったのか。本当はずっと苦しかったのか。君は、何を想って僕に抱かれたのか。

 疑問は次から次へと湧いてくるのに、答えてくれる君がいないんじゃ意味がない。

 脳天気に構えていた己に腹が立つ。勝手に親友の性を決めつけ、彼の葛藤を理解してやれず、結果ひどい幕切れを選ばせてしまった。

 何より愚かなのは、こんな事態になって初めて自分の気持ちに気付いたことだ。

 僕の親友は、僕の初恋の相手でもあったんだ、と。

 

 

    ◇ ◇ ◇

 

 

 黄色い丘にナイフが走る。焼きたての卵は左右に分かれ、下敷きにしたライスを覆うように裾野へと広がっていった。剥き出しになった半熟の中身はてらてらと光沢を孕んでいる。さらに波立つ表面にケチャップが迸り、皿の上が一気に華やいだ。

「これで完成だよ。冷めないうちに召し上がれ」

 促されて、おずおずと咥内へスプーンを運ぶ。美味い。舌に載せた途端とろける卵、ほどよく味付けされ米、両者が絡み合ったところでケチャップの酸味が利いてくる塩梅がまた憎い。この味に慣れては、コンビニ弁当やインスタントに頼る生活には戻れないだろう。

「プロ……?」

「調理師免許は持ってるよ」

 プロだった。カップ焼きそばを自炊と言い張る俺には想像もつかない世界である。

「ダイナミクスバーの店長じゃないのか」

「名目上はね。でも僕的に本業はこっち。店のメニュー考えたり、個人で料理の配信したりが主なお仕事かな」

 確かに刃物の扱いは上手そうだったな。とりあえず三枚に下ろすのは魚までに留めておけよ。

 でもそうか。曲がりなりにもこいつは夢を叶えたのか。

 過去が清算されるわけでも、負い目が無くなるわけでもないが、友人の成功は純粋に喜ばしい。破れた卵焼きを頑張ってライスに巻き付けていた少年は、今や一角の料理人というわけだ。

「いいんじゃないか。長ドスより包丁持ってる方が似合うぞ」

「言っておくけど、あれはたまたまだからね? 基本はホールの子に対応任せてるし、鶴さんとの約束があったから手っ取り早く済ませたかっただけだからね?」

「まあ店長がしょっちゅう凶器を振り回してたら事だしな」

 助けられた身ではあるが、やはりこの男に暴力沙汰は似合わない。強引ではあっても強制はせず、主張はしても排斥はしない。長船光忠は自由を愛している。それ故に誰かに依存する・される関係を好まない。ダイナミクスは先天的な要素が強いとはいえ、薬の反動で失神したのは当人の思想に拠るところが大きいだろう。

 ホルモンバランスはメンタルに強く作用する。根っからのNormalである光忠にDomの真似事を求めるのは、陸上生物にえら呼吸を強いるようなものだ。仮に副作用が出なかったとしても、黒田が親友を裏切った事実に変わりはない。

「そういえば、長谷部くんはいつ鶴さんと知り合ったんだい?」

「さあ、いつだったか……五年は経ってると思うが」

 十三年前の秋、公立中学の正門で友人と一緒のところを突撃された。

 真相は胸の内にしまい、曖昧な表現で追求を避ける。光忠に隠し事をするのはこれで何度目だろう。今も昔も、俺はこいつに不義理を働いてばかりだった。

 

「なんだ、まだ進展なしか」

 鶴丸は煎餅をばりばりと頬張って報告を聞いている。面白くないと態度で示されても、十数年の歳月が生んだ蟠りは大きい。これを一日二日でどうにかできるなら、そもそも他人の手を借りる必要すら無かった。

「ひとまず気付かれてはなさそうだ。同い年だからか変な遠慮もないし、知人くらいの距離にはなれたと思う」

「知り合いレベルで満足してどうするんだ。目標は三三九度だろう? あと五日しかないんだから早い内に仕掛けた方が良いぞ」

「勝手にゴールを設定するな。十二年前のこと、猿芝居のことを謝罪できれば俺は十分だ」

「別に嘘は言ってなかったがなあ。きみが質の悪いストーカーに狙われてるのも、俺の家が片付いてないのも、ホテルより光坊ハウスの方が安全なのも事実だろう」

「肝心の情報を教えてないんだから立派な詐欺だろ」

 確かに俺は取引先の男――会長の息子に言い寄られていた。福岡の支店から本社へ異動したての頃で、周囲に相談できる相手もおらず、対応が遅れたのは俺の落ち度ではある。社内での立場を考え、なるべく話を穏健に運ぼうとしたのも失策だったろう。最寄り駅に自宅、第二の性までも特定され、俺は間一髪のところで難を逃れた。

 無意識に首元へ手をやる。今が夏でなくて良かった。襟の開いた服を勧められても、寒いからと断る口実が作りやすい。

 あの男はDomのホルモン剤を過剰に摂取していた。規定量を超えての服用は理性のブレーキを容易く外す。俺の行方を追っていたストーカーは、目標がダイナミクスバーに入るのを発見し、さぞや憤ったはずだ。

 ――わざわざ見ず知らずの相手を選ばずとも、運命のパートナーならここにいるじゃないか!

 支離滅裂な妄想のみを武器に、果たして男は虎口に飛び込んだ。よもや罠と知らぬ道化は傍若無人に振る舞い、店の主人によって「処分」された。

 そう、この事件は一昨日の晩にもう解決されている。他でもない光忠に助けられた俺は、既に自由の身だった。従って長船家に厄介になる謂れなど微塵もない。

 ストーカーを店に誘い込むよう提案してきたのは鶴丸だ。作戦は上手くいったし、長年に渡って世話を焼いてくれた恩人でもある。ただ忘れてはいけない。こいつの目的はあくまで光忠の補佐で、俺への厚意はその延長に過ぎない、と。

 酷い別れ方をした友人と改めて話し合い、あわよくば再び交誼を結んでほしい。まあ俺が鶴丸の立場でも同じように考えるだろう。手段はもう少し選んでほしかったがな!

「身の安全は保障された、みたいな顔してるが甘いぜ長谷部。金でルールをねじ曲げる輩は大抵いやらしい置き土産を残してるもんさ。そのアフターケアに一週間ほど欲しいってだけで、別に光坊を騙したつもりはないぞ?」

「物は言い様だな」

 よく回る舌だ。感心しながら出された煎茶を啜る。かなり上等な茶葉を使ってるはずだが、風味を楽しむ前に冷めてしまった。勿体なく思う俺を見越したかのようにノックの音が鳴る。誰何するより先に銀髪の美丈夫が顔を出した。

「やあやあ、盛り上がってるかな諸君」

 男はドアを開けながら器用にティーポットを掲げてみせる。俺たちをゲストルームに案内したスタッフだった。世が世なら伯爵位を持ってそうな雰囲気だが、その言動は随分と砕けている。鶴丸といい、光忠といい、ここの連中は外見と中身が一致しないことが多い。

「おっナイスタイミングだな。ちょうど新しい茶が恋しくなっていたところだ」

「そいつは良かった。俺もこのべっぴんさんを披露する機会を窺っていたところでね」

 ちなみに、このべっぴんさんとは個人ではなく陶磁器を指すらしい。鶴丸含め、図らずも濃いキャラに挟まれてしまった。茶菓子は素直に美味いので、そこだけは救いである。

「一服したところで少しばかり耳を借りたいんだが、いいかい?」

「任せろ、耳掃除は済ませてある。気になるだろうが長谷部はそこでステイだぞ」

 言われずとも端から聞く気はない。しかし目の前で耳打ちするからには簡単な用件かと思いきや、鶴丸は男と揃って部屋を出て行った。施錠もしていたし、これは本格的に長くなるかもしれない。

 一人になった。これまで意識の外にあった秒針の音が静寂に寄り添う。手持ち無沙汰にカップを回し、これからについて考えを巡らせた。

 全てを話そう。第二の性を隠し、転校についても伏せ続け、最後に親友という拠り所さえ壊してしまった理由を、光忠には伝えるべきだ。とうに職も家族も信頼も失っている。今さら過去の古傷を抉ったところで大した痛手にはならないだろう。また友人に戻りたいなんて思うのが贅沢なんだ。

 ――がちゃ。

 思考が霧散する。物音に誘導されて扉に視線を向けた。ドアは開かない。鍵が掛かっているのだから当然だ。ここは客がプレイで使う個室とは異なり、基本スタッフしか立ち入らない。正面にはゲストルームのプレートも架かっている。トイレと間違えたなんて言い分は通らないだろう。

 がちゃがちゃがちゃがちゃ――!

 木製のドアノブが悲鳴を上げている。足が縺れ、全身がソファに沈み込んだ。丸いハンドルの木目は今も激しく回転している。

 扉一枚越しに感じる悪意に身が竦む。助けを呼ぼうにも喉から漏れるのは浅い呼気だけだった。指先がひとりでに布地を掻き毟る。何か武器になりそうなものは。どこまで利き手を伸ばしても返ってくるのはウレタンの柔らかい感触のみ。外の音は、やんだ。

 誰かが廊下を走っていく。動悸も収まらぬ中でふと拳をひらいた。湿った掌を呆然と見つめているうちに入り口が開いた。

「待たせたな長谷部……すごい格好だなおい、大丈夫か?」

 ソファから落ちた俺を案ずるのはよく知った顔だった。問題ないと答えたいが、腰が抜けて立つこともままならない。テーブルを支えに何とか半身を起こす。扉の前に立っているのは鶴丸だけだ。

「さっき、ここに来る前、だれかいなかったか」

 問いかけた声は自分でも判るほど上擦っている。流されると思いきや、鶴丸は忽ち目つきを鋭くした。普段の剽軽さなど欠片も見受けられない。

「落ち着いてからでいい、何があったか教えてくれ。俺からの話はその後でする」

 肩を叩かれ、ソファに座らされ、まずは呼吸を落ち着ける。その間にも鶴丸は若い連中を呼んで、あれこれと指示を出していた。やはり先の不審者は物盗りか何かだったのだろうか。力になりたいのは山々だが、俺には情報提供ぐらいしかできない。

「非常に言いにくいことだが」

 と、前置きされて身構える。ドアの一件は俺の勘違いとか? あるいは鶴丸の悪戯だったとか? どちらでも構わない。大事にならなければ、それでいいんだ。

「最低の置き土産が用意されていた。狙われてるのは店じゃなく、きみだ」

 鶴丸がスマホを差し出してくる。画面には「Sub(26歳・会社員)」「飼い主募集中」「乱交大歓迎」「拡散希望」「○○区在住」というハッシュタグと共に、俺の顔写真が載っていた。

 

「おかえり長谷部くん」

 帰宅すると笑顔の光忠に出迎えられた。夕飯の支度は済んでいるようで、玄関にまで良い香りが漂っている。道中は全く食欲が湧かなかったのに腹の虫は現金だ。

 今日の献立はシチューだった。よく煮込まれた野菜は甘く、ホワイトソースとの相性も良い。ほろりと崩れたじゃがいもを頬張る。優しい味がした。俯けば弱音と一緒に何かがこぼれてしまいそうで、慌てて玄米茶を呷る。

「今日も美味い。いっそ自分で店でも開いたらどうだ?」

「ありがとう。いつか持ちたいとは思っているから、そのときは贔屓してくれると嬉しいな」

 破顔する光忠に古い記憶の少年が重なる。あの頃より料理の腕も男ぶりも上がったが、夢語る姿は昔のままだ。いっそ素性を打ち明けず、このまま七日間だけの友人として終わってしまおうか。そんな愚行に心惹かれるぐらいには穏やかな時間が流れていた。約束通り、鶴丸はSNSの件を黙っていてくれたらしい。もし光忠が知っていたら、こんな表情はできないはずだ。

 本来なら家主である光忠には事情を説明しておくべきだろう。ストーカーとは別件だが、面倒事に巻き込んだことに変わりはない。例の投稿について報告しないのは、ひとえに俺の我が儘だった。

 これは狂言だった、お前と話す機会が欲しくて鶴丸に協力してもらった、色々と騙していてすまなかった。と、頭を下げて過去の清算をする。全て芝居だったことにするには、不特定多数からの脅威など実在してはならない。今度の相手は匿名を笠に着た一般人だ。後のことは警察に任せ、福岡に引き上がれば嵐も乗り切れるだろう。

 ただ、もう会えなくなるなら、せめて残りの四日間だけは好きな男の傍に居たい。奇しくも十二年前と同じ選択をしてしまった。どうか次こそは、光忠を傷つけずに済みますように。

 

 

    ◇ ◇ ◇

 

 

 物心つく前から数々の土地を渡り歩いていた。どこへ行こうと余所者は肩身が狭い。子供ながらに自衛を覚えた俺は、日本人にしては明るい髪と風変わりな目の色を隠す努力をした。野暮ったい格好に加えて愛想もなければ、好き好んで寄ってくる連中もいない。どうせ二年もすれば別の学校に通う。教室内で孤立しようとさほど困りはしない。引っ越しの作業自体は手間だったが、未知との出会いはいつだって少年の好奇心を満たした。周囲がどう見ていたかは知らないが、俺が転勤族の親に不満を持つことは無かった。第二の性は、俺のこうした一面を反映したのかもしれない。

 中二の春にダイナミクスの検査を受けた。ホルモン剤の流通が進み、従来と比べて性差によるトラブルや偏見もなりを潜めた。俺自身、抑制剤を飲むのは面倒だからNormalが良いな、ぐらいの感覚でいたはずだ。

 結果はSub、光忠が知ったらさぞ面白い反応をしてくれるだろう。先日だってDomじゃないか、という疑いをかけられたばかりだ。後で蒸し返してやろうと遠く離れた席を見遣る。

 まだ幼さが残る横顔が視界に入った途端、火花が散った。脈は乱れ、息が上がり、肌はじわじわと熱を持ち始める。異常だった。こんな衝動を俺は知らない。ここは教室で、先生も生徒もいて、誰もが平然としているというのに。俺は頭の中で親友に剥かれ、自らの恥部を晒す行為に耽溺していた。

「へえ、君がこんな変態だなんて知らなかったよ」

 違う、光忠はこんなこと言わない。あいつは争い事が嫌いで、誰かを蔑んだり見下したりするようなやつじゃない。胸中でいくら現実との乖離を叫んでも、身体は親友からの痛罵を悦んでいる。さらには見たこともない光忠の逸物を思い描き、溜まった唾を呑み込んだ。しゃぶるよう命令されたい。上手く奉仕できたらご褒美も欲しい。喉奥に精子を叩きつけられ、よくできたねと頭を撫でられたい。

 机の下で手首に思いきり爪を立てる。痛みが淫蕩な妄想を打ち消した。

「何を期待したか知らんが、面白い結果にはならなかったぞ」

 嘘は言っていないが、真実も話していない。光忠は俺をNormalと認識したようで、その勘違いに全力で乗ることにした。

 たかが第二の性と侮っていたが、とんでもない。自らのダイナミクスを知ることにより、俺のSub性は完全に開花してしまった。しかもDomですらない友人をパートナーにと切望している。

 友人。そう友人だ。一つ所に留まらない生活を続け、徹底して作るのを避けてきた友人。その数少ない例外が光忠で、こいつは俺が邪険にするにもかかわらず距離を詰めてきた。とうとう根負けした俺は、近い将来訪れるだろう別れを頭の隅に追いやった。それだけ光忠の隣にいる時間は楽しかったんだ。

「これは他の人には言ってないんだけどね」

 ――本当は家業を継ぐより料理人になりたいんだ。

 はにかむように告げた光忠は、珍しく眉を八の字にしていた。中学生は大人ではないが、子供でもない。自らの立場を知る長船家の一子は、胸の内を晒すことすら許されなかった。そんな親友が俺にのみ本音を口にした。とても誇らしく、心の底から応援したいと思えた瞬間だった。

 黒田国重は長船光忠の親友である。両者の間にあるのは友情だけが相応しく、どろどろの肉欲であってはならない。

 こうして光忠に一つ目の隠し事ができた。二つ目ができるまでは、上手く友人の皮を被っていられた。

「冬休みのうちに引っ越すことになった」

 師走を目前にして、父親にまた転勤の話が持ち上がった。朝のニュースを読み上げるような淡々とした報告だった。去年までの自分なら唯々諾々と従っただろう。しかし、今回ばかりは素直に頷けなかった。止めておけばいいのに、俺は初めて父の意向に逆らった。

「せっかく友達ができたから転校したくない」

 とはいえ、子供の主張一つで辞令が覆るわけがない。俺の反抗はにべもなく却下されて終わる、はずだった。

「そうですよ。いつも国重に我慢させてばかりなのは可哀想じゃないですか。たまには単身赴任という形でもいいでしょう」

 母親から予期せぬ援護射撃が入る。後から考えれば、ご近所付き合いやパートの契約更新などで向こうも限界だったんだろう。息子の意見をこれ幸いと、母は家庭環境の一新に乗り出した。

 双方ともに鬱憤が溜まっていたことは薄々察していた。俺の愚痴から始まった夫婦の討論は、やがて暴言や非難を交え、決定的な軋轢を生み出すに至った。離婚が決まり、俺の名字が長谷部に変わるまでは一月と掛からなかった。

「冬休みはどこへ行こうか」

 何も知らない光忠が尋ねてくる。肉まんの包み紙をポケットの中で潰し、ああだのうんだの適当な相づちを打つ。

 俺の親権は母が獲得し、三学期には福岡に転校する手はずになっていた。慰謝料は貰えても、母子二人で暮らしていくには心許ない。今後のことを思うに、家賃の高い都内でいたずらに資産を削るのは避けたかった。仮に延ばせても三学期までなら、と引っ越しを勧めたのは俺だ。責任を感じていないと言えば嘘になる。水面下に爆弾を抱えていたとはいえ、家庭崩壊の原因は間違いなく俺にある。女手一つで息子を育てねばならぬ母に、これ以上の負担は掛けられない。

 つまり、これが光忠と過ごす最後の冬だ。思い残すことがないよう精一杯過ごしたい。

 ……一度も光忠に触れられずに別れて、本当に後悔しないのか?

 悍ましい発想が脳裏を焦がす。二度と会えないなら嫌われても問題ない。最後くらい良い思いをしたっていいんじゃないか。俺たちは男と女じゃないんだ。成り行きで関係を持つ可能性は低い。ましてNormalの光忠がSubの俺で遊んでくれるはずもない。

 あれこれ煩悶しながらも、心中の天秤は欲望に傾いていく。様々な問題を解決する手段に気付いたときには、もう引き返せなくなっていた。

「黒田くんの家に来るのは久しぶりだなあ」

 何も知らない光忠がマグカップを手に取る。十五分ほど経っただろうか。光忠が蒸し暑さを訴え、寝台にもたれかかった。毒に蝕まれた身体は熱の捌け口を求めているに違いない。心配する体で近づき、友の顔を覗き込む。焦点の合っていない琥珀色が俺を映した。濁りきった瞳が劣情を孕んでいるのは、火を見るより明らかだった。

「苦しいなら、何とかしてやろうか」

 膝立ちになって光忠の腰を跨ぐ。今にも擦れ合いそうな局部を浮かせ、紅色の耳朶に唇を寄せた。

「Lickと言ってみろ。その一言で、お前はきっと楽になれる」

 沈黙が逸る心音を余計うるさくさせる。薬を盛られた光忠より、俺の方がよっぽど余裕を失っていた。この時点で二人の均衡はもう崩れていたのだろう。

「Lick」

 待ちに待った声が全てを弾き飛ばす。矜持も理性も言葉も打ち棄て、俺は一心不乱に親友の下着を寛げた。

 最中の真っ当な記憶はほとんど無い。ただ怒濤の快楽だけが肌に刻み込まれた。Domのメッキを施された光忠は最高のパートナーだった。こちらからCommandをねだったのは始めの一度きりで、後は心身ともに俺のご主人様として君臨してくれた。

 光忠が俺の中から出ていく。放り出した両脚の合間に視線を感じた。痴態を見られた雄膣がひくりと疼く。縁から呑みきれなかった男の残滓をこぼしておいて足りないとは嗤える。あまりの貪欲ぶりに揶揄の一つもされないかと期待したが、光忠は何も言わない。やたらと重い瞼を持ち上げる。つい数分前まで俺を蹂躙していた男は、もうDomではなかった。

 驚愕、動揺、後悔。見開かれた親友の目は言葉よりずっと雄弁だった。どうして、なにがあった。光忠が説明を欲していることは明らかなのに、俺は口を噤んでしまった。全て覚悟の上でこの凶行に及んだつもりが、用意していた台詞は喉につっかえて出てこない。

 拷問のような無言の間はさほど続かなかった。俺が声を絞り出すより先に光忠が倒れたからだ。

「光忠!」

 崩れ落ちた身体を抱える。熱い。呼吸は荒く、支えている背中もみるみる汗で濡れてきた。慌ててベッドに光忠を横たえ、タオルを取りに走る。訳も判らず肌を拭い、着替えも済ませた。多少息は落ち着いたものの、一向に熱が下がらない。

 自分だけでは手に余る。己の無力さをこれでもかと痛感した俺は、初めて掛ける電話番号に望みを託した。

 

「この調子じゃあ厳しそうだな」

 病室で鶴丸と話し合う。ホルモン剤の影響で倒れて三日、光忠は未だ目を覚まさない。

 鶴丸は俺を責めなかった。大事な弟分を陥れた張本人だというのに、怒鳴りもせず殴りもせず、この大人はただ優しく諭すばかりだった。引っ越しが迫っていて光忠の回復に間に合いそうにない、という話を聞いてなお鶴丸の態度は変わらない。

「これを、光忠に」

 俺の手から鶴丸へと手紙が渡る。おそらく見舞いに来られるのは今日が最後だろう。鶴丸に礼を言って、この場を辞す。それでやり残したことは、全て無くなるはずだ。

「直接言ってやらなくていいのか」

「残念ながらその機会がもうない。それに光忠だって自分を裏切った友人となんか二度と会いたくないだろう」

「そうか? こう見えて光坊は根に持つタイプだぞ。五年後や十年後になってもいいから、貸し借りの帳尻は一度合わせておくべきだと思うがな」

 飾り気のない封筒がくるくる回される。内容は先日の謝罪と転校にのみ触れて、その他余計なことは書いていない。私欲で友情を壊した同級生のことなんて忘れるべきなんだ。担任もそうだが、鶴丸にも引っ越し先と新しい名字は漏らさないよう頼んだ。光忠のことだから俺の気持ちを知ってしまえば必ず責任を感じる。気付いてあげられなくてごめん、などとあいつに言わせたくない。

「黒田、いや長谷部。俺はきみと交わした約束を守る。だからきみも約束してくれないか。今後この町に戻ってくることがあれば、必ず光忠に本当のことを話す、と」

 光忠と同じ色をした瞳をじっと見る。断るべきか否か悩んだ末に、俺はこの申し出を承諾した。

 帰るあてはない。就職した後は判らないが、その頃には十年以上の歳月が経っているんだ。さすがに光忠にも恋人ができて俺の付け入る隙は無くなっているだろう。再会の席で苦々しい初恋の記憶を酒の肴にするのも、案外悪くないかもしれない。

 

 そして日々の生活に追われるうちに十二年の月日が過ぎた。

 俺は警察に足を運んで以来ずっと長船家に引き籠もっている。例の投稿は削除してもらったが、元凶とは別に実行犯がいるため捜査は難航しているらしい。とはいえ同居生活も六日目を迎えた。明日にはこの町を去るから、当分貞操の心配をしなくても済む。

 時刻は午後七時を回ったばかりだった。光忠が台所に立って夕飯の準備を進めている。野菜を刻み、炒める音は淀みなく、素人の俺でも手慣れているのが窺えた。きっと今日も光忠の料理は美味い。これを食べ納めと思って、よくよく噛みしめておこう。何しろ夕食の後には大事な話が控えている。

 調理の具合を見計らってテーブルを軽く拭いておく。そろそろ配膳に移る段階になって、インターホンが鳴った。

「ちょっと見てくる」

 さっとエプロンを外して光忠が玄関に向かう。ここのシェフは盛り付けにも拘るので、俺だけでは食卓を整えることもできない。大人しく席について待つことにした。

 二分そこらで戻るだろう予想は外れ、意外に時間が掛かっている。ちょっとした興味でドアに耳をそばだてた。

「えっ話違くね。乱交歓迎って聞いたからアガったのに萎えるわ~」

「何の話か存じませんが、うちではSNSで人を募ったりしてませんよ。家をお間違えではないですか?」

 随分と軽薄そうな男だった。応ずる光忠は口調こそ丁寧だが、その慇懃さが反って空恐ろしい。何で相手はへらへら笑っていられるんだ。胎盤に神経を置き忘れてきたのか?

「ンでもぉ、お宅にセフレ募集中のSubが入っていったって投稿あったんスよぉ。あっもしかして飼い主あんた? もしかしてパートナーに内緒で男探してた系? うっわマジクソビッチ~つか俺間男じゃんウケル~」

 げらげら品のない笑いに身の毛がよだつ。嘔吐きそうになって口元を押さえたが、幸い不快な声はすぐに止んだ。

「あ? お前なに撮ってんの引くんだけど」

「あまり大声を出されると近所にもご迷惑がかかりますので、穏便にお引き取り頂こうかと」

「んだそれ、ショーゾーケンの侵害ってやつじゃん。いいんスかケーサツ呼びまヴェッ!」

 男が派手に転んだ衝撃がダイニングにまで伝わってくる。怒号は力づくで抑えられ、手足をばたつかせる音に成り代わった。光忠の懸念通り近所の人に目撃されたら、と考える間もなく誰かが来る。突然現れた第三者は玄関先の珍事に驚くどころか、悲鳴すらあげず騒動に加わった。抵抗していた男はたちどころに大人しくなり、再び扉が閉まる。廊下は元の静けさを取り戻した。

「ごめん、しつこいセールスに捕まってた」

 光忠が困り眉を作って戻ってくる。人のことを言えた義理ではないが、とんだ茶番だ。

 こいつは知っていた。ネットで俺が晒し者にされ、投稿を真に受けた連中に狙われているのを承知で、騙された同居人のふりをしていたんだ。いや極道を信じた俺が馬鹿なのか。鶴丸が俺ではなく光忠の味方なのは、とっくの昔に解っていたはずなのに。

「どうして黙っていたんだ」

 余分な修飾語はかなぐり捨て本題を切り出す。誤魔化す気はないのか、光忠も表情を取り繕うのを止めた。

「知られたくないみたいだったから。ゲストの要望に添ったまでだよ」

「それは……確かに隠していたのは俺も悪かったと思うが」

「謝る必要はないさ。あんな不快な投稿、誰にも見られたくないと思うのは当然だろう。それにせっかくナイト役を仰せつかったんだ。せめて家の中だけでもリラックスできるよう努めないと、格好悪いよね」

 物分かりの良い台詞を鵜呑みにしてはならない。低くなりがちな語尾に肩をすくめる仕草は、俺への批判が見て取れる。真意はどうあれ、共に暮らしていて光忠なりの気遣いは随所に感じられた。その最たる友人ごっこを台無しにしたのは、俺の方だ。

「その点も含め、色々と面倒を掛けてすまない。鶴丸たちにも、お前にも本当に世話になった。明日には福岡に向かうから、そのうちほとぼりも冷めると思う。すまないが礼は後日改めてという形で」

「待った。それは僕も聞いてない。福岡? 本気で言ってるのかい、それ」

「本気だ。元々一週間だけという話だったろう。居場所が割れてるなら猶更急いだ方が良いしな」

「まだ肝心のストーカーが捕まってないじゃないか。あの投稿もどこの誰が見たか判らないし、福岡が安全とは言い切れないよ。期限なんて気にしないから家に籠もっていてくれ」

 食い下がられ、認識の違いをやっと理解する。鶴丸が漏らしたのはSNSの件だけで、光忠はとうに過去となった元凶の存在をなおも信じているようだ。あの古狸を恨むのは筋違いだろう。この告白は他人を介してではなく、俺自身が為さねば意味が無い。

「ストーカーはもういない。五日前にお前が片付けてくれたからな」

 力強い眉がぴくりと跳ねる。友人の面差しが翳るのも構わず、俺は種明かしを続けた。

「鶴丸の提案であの店にストーカーを誘き寄せることになった。作戦は的中、俺は晴れて自由の身だ。そもそも、ここで一週間も世話になること自体おかしかったんだな。後から変な連中が湧いてきたのは想定外だった。ただネットで騒がれてるだけなら一過性のお祭りだろうし、九州まで逃げればどうってことなさそうだがな」

 光忠の拳が震えている。殴られても文句は言えない。しかし光忠は一歩も動かず、俺の胸ぐらを掴むことも罵声を浴びせることもしなかった。

「騙していてすまなかった。こんなやつと一緒に食卓を囲むなんてごめんだろうし、これ以上迷惑も掛けられない。タクシーを呼んで早めに退散しよう」

 ソファに置きっぱなしだった携帯を手に取る。通話用のアプリを立ち上げるのと手首を掴まれるのとは、ほぼ同時だった。

「まだ重要なことを聞いていない。問題が解決していたなら、どうして僕の家に来ることを了承したんだ。それも一日や二日じゃなくて一週間も」

 ぐっと力の込められた腕はとても振り払えそうにない。万力のように手首を締められ、つい苦痛を訴えてしまったが拘束は些かも緩まなかった。

「だんまりを決め込むつもりかい。残念だけど、納得いく答えが聞けるまで君をここから出すつもりはないよ」

 確かに真実を話すつもりではいた。しかし、ネットの投稿を知られ、福岡行きまで止められるのは計画に無い。このまま中学以来の執心を明かしたとする。光忠のことだ。たとえ自分を裏切った友であっても、好意を向けてくれる相手の窮地に見て見ぬ振りはしないだろう。そんな理不尽な選択を惚れた男に強いることなどできやしない。

「どうして、と言われても。成り行きというか、その」

「そうやってまた僕から逃げるのかな、黒田くん」

 今度は俺が息を呑む。およそ十二年ぶりの響きがもたらしたのは懐かしさではなく、恐怖だった。

「い、つから」

「正直今の今まで半信半疑だったよ。でも僕と同年代で鶴さんと知り合い、かつ下の名前まで一緒と来たら、嫌でも勘付くだろう。髪と目の色こそ変わってるけど、格好に頓着しないところも、隠し事が多いところも、好きな料理も昔のままじゃないか」

 オムライス、シチュー、ハンバーグ、肉じゃが、そして今晩の天ぷら。俺の好物で占められている献立が偶然ではなかったとしたら、光忠はほぼ最初から猿芝居と見抜いた上で協力していたことになる。

「ずっと気になってた。第二の性や引っ越しの件を黙っていたのは何故か、どういう気持ちで僕に抱かれたのか、ちゃんと君の口から理由を聞きたかった。だから六日待ったんだ。また何も教えてくれないまま居なくなる気なら、ここを通すわけにはいかないよ」

 理由。散々周囲を巻き込んだ割にはちっぽけで、つまらない理由。両親が離婚したのも、親友を裏切ったのも、妙な芝居を打ったのも、全部初恋とかいう救いがたい呪いのせいだった。

「どうしてお前だったかって? 別に大した意味はない。誰でも良かったんだからな」

 つまらないと自覚しながら初恋に殉じてしまう。俺はとんだ間抜けだった。

「中二じゃ出会い系アプリにも登録できないし、ダイナミクスバーにも行けない。だから手近なところでDomの代理を立てようと思った。ちょうど引っ越しを控えてたから高飛びもできるしな」

 友人相手に劣情を催し、俺は自らの性を恨んだ。光忠に飼われたいと思うのは恭順を好むダイナミクスのせいだ。自覚したてのSub性を抑えられず、 ついNormalにまで対象を広げてしまったに過ぎない。論より証拠と、Domが主演のAVを探した。男優にも女優にも全くそそられず、Domを光忠に、Subを自分に置き換えて初めて興奮した。

「昔から特定の相手を作る気はない。その場しのぎの恋人がいれば十分だ。だから誰からのCollarも受け取る気はないし、ストーカーなんて以ての外だ」

「ワンナイトはしない主義じゃなかったのかな」

「まさか、こんな嘘つきの言葉を律儀に信じてたのか? 親友を竿扱いするような色狂いだぞ、薬だけで自制できるはずもないだろう」

 片手で襟を寛げ、頑なに隠してきた首元の肌を晒す。さすがに手の痕は残っていないが、ぐるりと首をめぐる痣は健在だった。俺を掴む光忠の手が、微かに緩む。

「わかっただろ。俺はもう子供じゃないんだ。この手のプレイを喜んで受け入れてくれるオトモダチもいる。ネットの連中だって、別に俺が見つかる分には構わないんだよな。ただ、世話になっている長船の連中まで巻き込むのが申し訳ないだけで」

「そんな、見え透いた嘘に引っかかるとでも」

「嘘? どうしてそう言い切れる。俺の気持ちを、お前が勝手に決めるな」

 力の限りを尽くして拘束を払いのける。色を失った光忠の背後では、手付かずの夕飯から湯気が立ちのぼっていた。最低限の荷物をまとめて長船家を出る。

 常夜灯を頼りにマンションの外廊下を見渡した。誰も居ない。変質者もやたら物分かりの良い「隣人」も、光忠さえ追ってくることはなかった。

 

 路地を避けつつ、大通りに向かう。人目に付く場所で騒ぎ立てる馬鹿はいない。タクシーを捕まえて駅に着いてしまえばこちらのものだ。しかし帰宅ラッシュは未だ終わらず、車の歩みは遅々としている。信号が何度変わり、正面のコンビニで何人の客が出入りしただろうか。連なる車両の最後尾にやっと目的のカラーリングが見えた。

 手を挙げてタクシーの元へ近づく。十字路に差し掛かり、ガードレールが途切れた。ばちん、と光が弾ける。視界が眩み、地面に吸い寄せられるように上体が傾いた。

「上手くいった、出せ」

 俺を受け止めたのは舗装された道路ではなく、合成皮革のクッションだった。痺れた手足に縄が巻きつけられる。俺の他に男数人を乗せた車が走り出した。

「モノホンじゃん。あのDMガチだったんだな」

「今△△区、××町。交ざりたいやつは●●公園の駐車場まで、っと。よし送信オッケー」

「カーセックス生配信この後すぐ! チャンネルはそのまま~」

 信じがたいことに車内はカメラが回っていた。自らの犯罪行為を中継するなんて気は確かか。しかもやり口が相当に手慣れている。モニター越しに救援を請うより早く口元にガムテープを貼られた。スタンガンの余韻で抵抗もままならない現状、考え得る脱出の手立ては無い。

 ネットの拡散力を侮っていた。既に一人は制裁を受けているし、わざわざ俺を探す物好きが他にいるとは思わないだろう。これが光忠の厚意を無下にした罰なのか。いきなり地獄へ落とされ、硬直していた頭が遅れて恐怖を認め始める。自棄になって暴れるも、芋虫より自由にならない身体は容易く制圧された。

「なにそれ抵抗するフリ? 処女なりきりとか演技派じゃん」

 男たちが揃って哄笑する。倫理観の欠片もない発言ばかり拾っているにもかかわらず、配信の画面は賛同の声で埋まっていた。狂っている。仮に声を発したとしても、助けは期待できないだろう。

「大体さあ、Subは苛められて悦ぶヤベエやつの集まりっしょ。輪姦歓迎のタグ付けたやつに選択権なんてねえんだわ」

 縄がぎしぎしと軋む。縛られている事実も忘れ、ひたすら男の鼻っ面を殴ることだけ考えた。

 多数派はいつだって少数派を自らの物差しで測る。公平な視点を試みたところで自らの価値観を完全に排除することはできない。世間が持つSubへのイメージは、地位が向上してなお偏見に晒され続けてきた。

 Domに限らず、Subと異性との間に優劣は存在しない。信頼があって初めてSubは自らの支配権をパートナーに委ねることができる。罵られ、虐げられ、雑に扱われることを望んでいるわけじゃない。

 俺は、光忠だけに全てを明け渡したかった。もはや叶わぬ夢だ。親友の尊厳を踏みにじり、恩を仇で返すようなやつとの縁なんて切れた方が良いに決まっている。

 駅からだいぶ遠ざかって、公園の敷地内に入る。無料の駐車スペースが設けられているが、利便性の関係で埋まることは少ない。平日の夜ともなれば尚更で、この一台を除いて他に車は見えなかった。

 ドアが開く。男たちが撮影用の機材を下ろし、狭苦しかった中央の座席に余裕が生まれた。暗闇に慣れていた目がルームライトで眩む。瞬きを繰り返すうちに配信再開の口上が述べられた。

「それじゃあまず軽く剥いていきましょうか!」

 実況役が転がした俺の服に手を掛ける。光忠に選んでもらったセーターがシャツごとめくられ、外気に触れた肌が粟立った。

「使い込んでいる割には綺麗なピンク色ですね。慣れていないフリが上手いです。解説の■さん、いかがですか」

「ケアの賜物でしょう。触ってみれば化けの皮が剥がれますよ。ここは耐久テストをしてみるのが吉かと」

 低俗な掛け合いを挟み、汚い指先が胸元に伸びる。冗談じゃない。腹筋の力で跳ね起き、覆い被さってきた男の額に頭突きを喰らわせてやった。

「てめッ、何すんだ!」

 容赦もなしに頬を殴られ、再びシートにねじ伏せられる。どこか切ったのか咥内に鉄の味が広がった。

「被害者ぶるのも大概にしろよ。こっちはてめえの淫乱雄ま×こが寂しいっつーから善意で付き合ってやってんだ。陵辱気分を味わうのは勝手だが、発情豚ごときに噛みつかれんのはムカツクんだよなぁ!」

 バチッと稲妻が走る。怒り猛る男がスタンガンを振りかざした。放たれる青光が頻りに激しい音を立てる。本能が危険信号を発して逃亡を迫るが、大の男に二人がかりで抑えられて身動ぐことすら叶わない。まずい。あれはだめだ。訪れる衝撃を幻視した神経が先走る。恐慌が全身を染め上げ、視界を曇らせる。溢れかえった感情が目尻からこぼれ、座席を湿らせた。

 起死回生の策? そんなもの浮かびやしない。この場を切り抜ける膂力も、屈辱に耐える気概も俺は持ち合わせていなかった。

 せめてもの慰めとして、この場にいない男のことを想う。光忠はどうしているだろう。十二年越しに真実を知り、また裏切られて憤慨しているか、気落ちしているか。謝って楽になれるのは俺だけだ。性悪な友人のことなんて忘れて、幸せになってほしい。

 ああでも良い夢を見せてもらった。吐き気がする。

 この六日だけでも十分にお釣りが来るほど恵まれた日々だった。こんなのは嫌だ。

 多少嫌な目に遭っても俺一人で生きていける。誰か助けてほしい。

 また明日から心機一転頑張っていこう。光忠がいい光忠以外はいらない光忠こわいたすけてうそついてごめんなさいいやだおれをみすてないで。

 けたたましい音を立ててタイヤが路面を削る。突如射し込んできた光が車ごと俺たちを照らした。驚いた男がスタンガンを取り落とす。次いで外に固定してあったカメラが三脚ごと倒れた。

「な、何すんだてめッ」

 撮影係の語尾は潰れ、抗議の代わりに野太い悲鳴が響く。混乱していた他の二人も慌てて車外に下りた。乱入してきた男は一人だけだった。闖入者は数の不利をものともせず静かに不良たちを睨めつけている。長い脚に添えられた黒鞘の太刀には、見覚えがあった。

「何するんだはこっちの台詞だよ。アカウント停止案件の犯罪に手を染めておいて自覚も無いのかい」

「あ~? 無修正ポルノが駄目で、通りすがりに人を殴るのがオーケーな理由がイミフなんスけどぉ? あーこれ鼻の骨折れてるかもしれねえなァ! 一生もんの傷になっちまうなァ!」

「折るつもりで殴ったからね」

「開き直ってんじゃん。うっわ全殺し確定だわ、配信のジャンルがエロからグロへ華麗なる転身だわ」

 喚く二人はどちらも体格が良い。撮影器具も大の男が振るえば立派な鈍器になり得るし、これらを一人で捌くのは現実的ではないはずだ。

 ただ、武器を拾うなんて真似を長船光忠が許すだろうか。そもそも奇襲とは頭数を減らすためにある。先に叩いた一人が回復するまで待つ義理など、光忠には無い。

「いっで! え、アきれてる……なんッおれの腹! さけてる、血! 血がふきでうわあああ!?」

 一瞬だった。悶絶する男を白刃が冷ややかに見下ろしている。その刀は半ばを宵闇に溶かし、半ばを月影に照らして紅い名残を振り払った。幼少より鍛えられた技術は抜刀の挙動すら悟らせない。かつて子供部屋の置物だった無用の長物は、今や血肉を食んで持ち主の手も同然に振る舞っている。

 狼狽する男の動揺が仲間にも伝播する。アウトローを気取ろうと所詮は素人。生まれから倫理の埒外に置かれていた青年を相手取るには、技量も度胸も何もかも足りていない。腰を抜かした最後の一人は這々の体で逃げ出した。

 破裂音が耳を劈く。遠ざかる影は地に伏せ、仕留め損なった油虫のように小刻みに震えた。

「ナイスショット、鶴さん」

「ちょい地味だが美味しいところは貰えたみたいだな。とはいえ今の音で誰か来たら困る。さっさとこいつらを回収して撤退しよう」

 運転席から男を狙撃したのは鶴丸だった。駆けつけた二人はあれよあれよと後処理を済ませていく。しばらくして長船の部下たちも合流した。残りの作業は彼らに引き継がれるらしい。

「帰ろう長谷部くん」

 恭しく差し出された手を取る。車の行き先が駅でないのは明白だったが、敢えて言及しなかった。鬼神のごとく暴漢を一蹴した光忠が恐いわけではない。むしろ俺は心配する側だった。

 役目を終えた刀が小さく、だが絶えず鳴っている。背丈が伸びて、剣の腕が上がって、ついでに意地も悪くなったけれど、こいつの根っこはどう頑張っても争い事に向いていないようだ。

 

 二度とは見ないはずだった長船家の敷居を跨ぐ。二人分の夕飯にはラップが掛かっていた。始めから光忠は俺を連れ戻すつもりで動いてくれたらしい。散々こけにされておいて呆れたお人好しである。父親が過保護になるのも致し方ない。

「とりあえず頬腫れてるから手当しようね」

 指摘されてそういえば、と頬の違和感に気付く。正直なところ五体満足で帰れただけでも御の字だ。救急箱まで持ち出した光忠が大げさに見えてしまうが、こればかりは不可抗力と思いたい。

「ありがとう」

「どういたしまして。それじゃあ釈明を聞こうか」

 リビングのソファで隣り合いながら距離を詰められる。油断させてからのノーシクエンスで突っ込んでくるんじゃない。こっちにだって心の準備があるんだぞ。

「ああ、まあ……なんだその、ごめんなさい」

「それは何に対する謝罪かな? 僕の制止も振り切って一人で外に出たこと? 初対面のふりをしてたこと? SNSの件を黙ってたこと? それとも」

「皆まで言うな全部だ全部。ああくそ、もう少しで逃げ切れたのに間が悪い」

「また高飛びできるとは思わないことだね。それとも相手・人数問わず激しいプレイがお好みの長谷部くん的には、さっきの救出劇も余計な真似しやがってという評価なのかな」

「冗談言うな。めちゃくちゃ怖かったんだからな、あれ」

「……ごめん、言い過ぎた」

 本心を漏らすと光忠の刺々しかった態度が一転しおらしくなる。大人になって再会したこいつは掴み所がなくて腹の読めない策士だったのに、今はまるで親に叱られた子供みたいだ。

「気にしなくていい。ああ言えば放してくれるだろうと咄嗟についた嘘だ。お前の店以外でダイナミクスバーに行ったことはないし、恋人含めパートナーいない歴と年齢はイコールだぞ」

「えっ」

 やたら勢いよく光忠が顔を上げてくる。何だその反応は。俺のビッチ演技がそんなに様になってたとでも言うのか。

「長谷部くんは引っ越してから誰とも付き合ってないし、Domと遊んだこともないってこと?」

「そうだが、おい顔が近い。やめろイケメンを至近距離で浴びせるな」

「確認しておきたいんだけど、もしかして僕以外との経験はゼロだったり、する?」

 ソファに背に腕を回され、ますます光忠の顔が近づく。膝が触れて反射的に背をのけぞったが、その分向こうが前のめりになって隙間を埋めてきた。これは新手の拷問か。明らかに怪我とは別の理由で頬が熱い。十二年以上も初恋を拗らせている童貞を揶揄うのはよしてくれ。

「そうだが、悪いか」

 捨て鉢になって答える。顔を逸らし、名前も知らない観葉植物を睨みつけた。一枚、二枚と意味もなく青葉を数えていたのに、視界から突如として壁際の小鉢が消えた。カウチの柔らかな感触に支えられ、天井とそれを覆い隠す美丈夫の顔を仰ぎ見る。

「改めて訊くよ。あのとき、君はどういう気持ちで僕に抱かれたのか。この家で一週間も過ごしてもいいと思った理由は何故か。今度こそ本当のことを教えてもらう」

 手と手を絡められ、ソファに縫い付けられる。十二年前をなぞるような体勢に腹の奥が疼いた。

 ここまでお膳立てされれば、さすがの俺でも察しがつく。

「そんなの決まってるじゃないか」

 どう答えようと拉致騒動より酷いことはならない。既に底値を記録したのだから後は野となれ山となれ。せいぜい驚いてみせろよ長船光忠。

「好きなやつとの思い出が欲しかった。好きなやつと一緒に居たかった。ただそれだけだ」

 鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこんな顔なんだろうな。美術品さながらの麗しいかんばせを崩し、光忠は俺の肩に額をぐりぐりと押しつけた。黒い癖っ毛の掛かる耳はほんのり赤らんでいる。

「長谷部くん」

「何だ」

「僕はNormalで男だけど」

「それがどうした」

「家はヤクザで、人を斬っても平然としてるくらいには倫理観に欠けるけど」

「安心しろ。人を斬った後に手が震えてたの見てたからな」

「君が見てなかったら、あいつら全員殺してたかもしれない」

「俺が見てればセーブできるだけの良心はあるんだろ。嫌なら料理人として大成しろ」

「君が嫌だって言っても絶対に手放さないし、長谷部くんを雁字搦めにして思いきり束縛するかもしれない」

「望むところだ。Subはなあ、パートナーに執着されてこそ華なんだよ」

「はせべくん」

「何だ」

「中学の頃からずっと好きでした。結婚を前提に付き合ってください」

「……ははっ! ああいいよ。結婚しよう、光忠」

 

 互いに好意を打ち明け、恋仲になった二人が夜にすることなんて決まっている。ソファの上で折り重なり、どちらともなく唇を合わせた。始めは啄むように、次第に舌が絡まって互いの味に溺れていく。

 逞しい背に手を這わせ、服の下にある膚を想像した。もどかしい。早く素肌に触れ、この男の重みを感じてよがり狂ってしまいたい。

「長谷部くん」

 俺よりも大きな掌が片頬を撫でる。優しさの伝わる動きがたまらなく心地良い。黒の革手袋を一枚隔ててはいるが、光忠の手はとても温かかった。

「僕はNormalだからSubの君をどこまで満たしてあげられるか解らない。でも僕は、僕なりにベストを尽くそうと思う。そのためにも、君の愛し方を教えてほしい」

 俺自身は光忠と繋がれるなら性がDomでもNormalでも関係ない。しかし光忠に奉仕して、たくさん褒めてもらって、いやらしい言葉を投げかけてもらえることを想像したら、期待で唾が自ずと溜まってきた。

「ん……じゃあ、光忠は普通に座ってくれ」

 光忠が半身を起こす傍ら、俺はソファを降りる。長い脚に挟まるようにして座った場所は絶景だった。まだCommandを一つも受けていないのに、見目麗しい恋人に跪いている事実だけでもう前が苦しい。

「基本は大体Kneelから始まる、らしい。犬でいうところのお座りだ」

「お座りかあ。ふふ、確かにわんちゃんみたいだね。可愛いよ」

 言うやいなや光忠は顎の下をくすぐってくる。ペット扱いはどうかと思うが、可愛がってもらえるのは嬉しい。

「Kneel」

 言葉一つで人らしくあるための何かが溶ける。蝋燭で喩えるなら芯に相当するそれは、光忠の膝を借りた途端に燃え尽きた。

「顔ふにゃふにゃだね。そんなに僕の膝は気持ちいい?」

「永住権を申請したい」

 ご機嫌そうな光忠に髪を梳かれる。Commandの余韻と相俟って多幸感が凄まじい。

「他には? してほしいことがあれば遠慮なく言ってね」

 若干柔らかめな口調が愛されている自覚を与えてくれる。甘えてもいいのだと背を押され、十二年熟成させてきた欲求を舌に載せた。

「光忠のを舐めながら俺が一人でシてるところ、見てほしい」

 毛繕いをしていた手が止まる。心なしか光忠の顔が強ばってるように見えるし、やはり早まっただろうか。

「その、ダメなら諦めるが」

「いや大丈夫。ちょっと想像しただけで大分キただけだから……」

「童貞みたいな発言だな」

「僕だって君以外との経験は無いし、前回は薬で正気じゃなかったし、実質童貞だよ」

「その節は大変なご迷惑をお掛けしまして……いや、お前その顔でセカンド童貞は通らないだろ」

「経験豊富だったら君のおねだりだけでこんな風になったりしません」

 腕を引かれ、開いた脚のさらに奥まで誘導される。掌に押しつけられた膨らみは、服越しにも判るほど確かな硬度を持っていた。ご開帳の前から知らず喉を鳴らしてしまう。これは実に元気な息子さんだ。

「俺もあのときは無我夢中だったから自信はないが……上手くいったら、褒めてほしい」

 窮屈そうな前立てを摩り、ジッパーに手を掛ける。時折つっかえそうになりながらも苦労して取り出した逸物は、記憶よりも遙かに太く逞しかった。あの頃はまだ成長期だったし、今の光忠はかなり大柄な部類に入る。小さくないとは踏んでいたが、さすがにこのレベルは想定していない。

「長谷部くん口開いてるよ」

「魔羅神様……」

「邪神かな?」

「これを咥えたら俺にも御利益が」

「他人様の股間で新たな宗教を開くのはよして頂こう」

 拝みたくなったが、あまりしつこいと怒られそうなので初心に返る。おそるおそる根本を支え、勃ち上がりかけている肉茎に頬を寄せた。濃厚な雄の匂いにくらりと来る。すぐに味も知りたくなって幹へと口づけた。唾液を塗すように丹念に、丁寧に光忠を高めていく。たまに上から艶めいた息が漏れて、そのたびに俺もひどく煽られた。

「ふっ、く……はせべくんも、前きつそうだね」

 光忠との間に銀糸を繋ぎながら頷く。両脚を擦り合わせるだけの刺激では既に足りない。服の中に手を突っ込み、がむしゃらに扱いて果ててしまいたい。でも光忠への奉仕も止めたくない。欲望の板挟みに遭いながら、俺はその葛藤すらも内心楽しんでいた。

「じゃあ脱いでしまおう。上は後で僕が脱がすから、下だけ先に、ね?」

 惜しみつつも一旦光忠から離れて立ち上がる。脱ぐところを光忠に視られる。新たなCommandを認識したSubの本能は目先の欲よりパートナーの関心を選んだ。なるべく扇情的に映るように、自らの指遣いと光忠の目線とを意識する。腹を撫で、張り詰めた性器の形をなぞり、ようやく前を寛げる。下着は早くも湿り、中央に染みを作っていた。

「すごくえっちだよ、長谷部くん」

 光忠が俺の痴態に目を細める。恍惚の滲む笑みに励まされ、俺はいよいよ腰から下の着衣を取り去った。触られてもいないのに竿はみっともなく涎を垂らしている。恥ずかしい。視てほしい。優しくされたい。叱ってほしい。二律背反の情動に駆られながら、俺はひたすらに光忠からの反応を待った。

「よくできました。えらいね長谷部くん」

 渇望していた賛辞がSubの心を満たしていく。ああ、俺はどうしたって光忠に惚れている。Domでなくても、薬に頼らなくても、俺はこの男だけに特別褒められたい。

「じゃあさっきの続き。舐めながらオナニーしてるところ見せてくれるんだよね? 楽しみだなあ」

 期待されたら応えないわけにはいかない。俺は再び光忠の股間に顔を埋め、四つん這いになって自らの熱を掴んだ。

 エラの張った雁首を含み、舌と唇で砲身を扱く。先のストリップが多少なりとも功を成したのか、より質量を増した肉塊はとても奥まで咥えられない。しかし、この犯されてると勘違いするほどの息苦しさが反って良い。ぐちゅぐちゅと下腹部の音が湿り気を増してくる。

「あ、はぁッいい、じょうずだよ、はせべくん」

 光忠に肯定されて、ますます俺の口淫は大胆になる。頭を上下させ、先走りすら零すまいと執念く亀頭を吸った。

「ッ……でるッ!」

 光忠が低く唸る。頬を窄め、咥内に入るぎりぎりまで剛直を受け入れた。間を置かず白濁が喉奥を叩く。青臭さが鼻を突いて涙腺が緩んだ。途切れ途切れに息をしつつ、溜めた精液を少しずつ嚥下していく。お世辞にも美味しいとは言えないのに、身体はもっともっとと子種を求める。どうにも名残惜しくて、全てを舐めとってからも陰茎に舌を這わせ続けた。

「お疲れ様、長谷部くん。とても良かったよ」

 頭を撫でられ、半端に昂ぶったままの性器が切なくなる。しかしながら光忠の熱が一段落した今、俺だけ自慰に耽るのもどうだろう。悶々としていたら、脇の下から抱えるようにしてソファに引き上げられた。

「お礼に今度は僕が長谷部くんを良くしてあげるね」

 俺を横たえ、組み敷いた光忠が宣言する。紅い舌で自らの唇を湿らす様がひどくいやらしい。衣服を乱されていることにも気付かず、俺は恋人の色香にすっかり中てられていた。

「ふぇっ!?」

 腹筋から胸元にかけて撫でられ我に返る。セーターはたくしあげられ、シャツは前を開けられ、俺は首と腕以外の肌を光忠にまるっきり晒していた。

 黒い手袋が床に落とされる。剥き出しの膚に光忠の温もりが直接触れた。肉付きの良くない胸を捏ねられ、女でもないのに妙な気分になる。戯れに凝り固まった乳頭を潰されるとまた変な声が出た。

「長谷部くん痛い? 気持ちよくない?」

 確かめるような物言いだが、光忠は尋ねながらも胸への刺激を止めない。表情で一目瞭然だから判っててやってるんだろう。ひどい男だ、最高かよ。

「い、ぃ……だいじょうぶ、だからもっと」

「もっと?」

「つよく、して」

 光忠が相好を崩す。俺の言葉を待っていたとばかりに胸への責めが激しくなった。じゅるじゅると音が鳴るほど乳首を吸われ、視覚でも聴覚でも羞恥を煽られる。もう一方も指で挟まれ、引っ張られと無体な扱いを受けては興奮が募った。

「ぁ、アッんやぁ、ちくび、じんじんする」

 未知の快楽に語尾も思考も溶ける。敏感になった突起はてらりと濡れ、触れる外気の冷たさにすら凍えた。胸の性感が高まるにつれてお預けされた前の疼きも強まっていく。

 焦れる俺を見かねてか計算か、光忠の指先が足の付け根に触れる。おもむろに中心を掴まれ、人肌に飢えていた肉芯が喜悦を叫んだ。

「ンぁ、みつ、だめ、いくいきそ、やぁッ……!」

 中途半端に弄って放置された分だけ上り詰めるのも早い。既に限界が見えてきて、なおも胸を嬲り続ける光忠の髪を搔き乱した。凝り固まった乳頭に柔く歯が絡む。とどめを刺され、背がひとりでにしなった。

「イッ……あああぁああッ」

 びゅくびゅくと弾ける飛沫が光忠の手を汚す。絶頂を経て靄がかった思考が徐々に晴れだした。光忠はうっそりと微笑み、白く染まったてのひらを見せつけてくる。

「ちゃんと出せてえらいね。可愛かったよ長谷部くん」

 額に唇を落とされ、充足感が泉のごとく湧き上がる。褒められるたび脳内麻薬が体中を巡り、光忠に全てを委ねたい思いが増した。

「じゃあ次は二人で気持ちよくなろうか」

 湿った指が陰嚢よりさらに下に潜り込む。未だ頑なな窄まりを押され、あっと小さく声が漏れた。十二年前に男を教え込まれた下腹が予兆に震えている。放ったばかりの精液を塗り込まれ、縁が少しずつ解れていく。ずっと頭がふわふわしているせいか、拓かれる苦痛も不安もほぼ感じなかった。

 侵入を果たした指が中を探るように動く。さすがに俺が出した分だけでは厳しく、途中からオリーブオイルを足された。なんだか料理されるみたいだが、後々美味しく頂かれるという意味では間違ってない。

「いい子だね。もうこんなに柔らかくなってきたよ」

 俺が褒めてほしいと言ったせいか、素よりそういう性分なのか、光忠は言葉を惜しまない。お陰でSubの快感を覚えながら緊張とは程遠くいられる。行為に不慣れな二人組にもかかわらず、さほど準備にはまごつかずに済んだ。

 指が出ていき喪失感がすぐさま取って代わる。確かに寂しいが、待つよう命じられたら従う他ない。この間に光忠は服をばさばさと脱いでいく。そうして露わになった上半身は目を瞠るほどの造形美だった。割れた腹筋、広い胸板、凹凸のはっきりした腕周り。まさに非の打ち所がない身体つきである。同じ男として羨ましいことこの上ない。

「熱視線を感じるなあ」

「好きなやつの裸を凝視して何が悪い」

「確かに。僕としても良い眺めだと思う」

 光忠の目線がさっき散々慣らした尻の狭間に向かう。見られていることを意識した後穴がひくついた。一度吐精した光忠の中心も雄々しく屹立している。

「おいで」

 広げられた両腕の間に喜々として飛び込む。光忠を跨ぐように膝を立て、近付いた肉槍の存在感に胸を躍らせた。

「さっき言った通り、二人で気持ちよくなろうね」

 怒張の先端が下の口を小突く。切っ先がぬかるみに沈み、隘路を割り開いていった。

「ア、あ、ぁあああッ……!」

 深々と刺さる熱棒が意識の全てを攫っていく。腸壁は自らを征服した雄に靡き、その形を覚えようと必死に縋りついている。収めきった頃には背に汗がびっしり浮かび、光忠の肩に頭を預けていた。

「ふッ……はせべくん大丈夫?」

「へい、きだ。はあ、すごい。みつただの、ここまで」

 腹を撫で、皮膚の下を想像する。へその辺りまで圧迫感に苛まれ、息をするだけでも重苦しい。それ以上にしあわせで、胸があたたかい。

「だいじょうぶだから好きに動いてくれてかまわない。俺で、光忠にもよくなってほしい……ンッ」

 試しに腰を少しだけ浮かせ、また落とす。自分でやっておいて中が切ない。もっと強引に責め立て、繋がっている場所が腫れるほど乱暴にされたい。光忠を誘うつもりで仕掛けたのに、我慢できなくなっているのは俺の方だった。

「ァっはぁ、あッ! あつ、きた、きたぁッ」

 光忠に突き上げられ、望み通り中を激しく犯される。太い傘が指で教え込まれたしこりを引っ掻く。結合部から伝わるのは間違いなく雌の快楽だった。男を受け入れた尻は性器と化し、腹の奥まで貫かれては噎び泣いている。

「はッいい、最高だよ長谷部くんッ……!」

 余裕なさげな光忠の声が俺をますます狂わせる。嬉しい。俺の身体で光忠が感じ入っている。薬を使わず、DomとSubという関係ではなく、純粋に一人の男として俺を求めてくれている。故意にダイナミクスを弄った十二年前よりも深く、甘い痺れが身体の隅々まで行き渡った。

「は、アッ、んんッ!? あ、や、ちくび、うンッ」

 厚い舌がねっとりと胸の先を舐る。母乳の代わりとばかりに前がまた濡れ始めた。粘膜が触れ合って、上からも下からも水音が響く。ソファが軋むのも構わず、俺たちは取り憑かれたように互いの肌を貪り合った。

「やン、あッ、へん、へんだ。おれ、きもちよすぎて、おかしく、やぁ!」

「だいじょうぶ、気持ちいいのは良いことだよ」

「でも、あッあああぁ~! くる、だめ、みつたら、それだめぇ」

「イきそう? いいよ、はッ、僕に後ろぐっちゃぐちゃにされて、女の子みたいにイっちゃおうね」

 じゅぶじゅぶと容赦なく攪拌された肉筒が震え上がる。指摘された通り限界が近い。自分のものを擦って果ててしまいところだが、俺のご主人様はメスイキをご所望だ。

「はあっあッ! して、なかめちゃくちゃにして、んンッ、うしろで、イかせてぇっ」

 光忠の首に縋りつき懇願する。ふと律動が止んで、肛虐に慣れた腸壁が寂しさを訴えた。どうしてと尋ねるより早く背を倒される。膝裏を押さえられ、秘部を大きく晒すような格好になった。掴まれた腰が光忠とぶつかる。

「やっアッはげし、あッぁ! みつ、アぁあッ!」

 叩きつけるような勢いは先程までの比ではない。濡れた肉が幾度も擦れ合い、俺から嬌声以外の言葉を奪う。未通だった奥まで捏ねられ、被征服欲がより一層満たされた。光忠の荒い息が皮膚をくすぐるのすら快感に繋がる。縁のぎりぎりまで水を湛えたコップを思い描く。俺の臨界点はもうすぐそこまで迫っていた。

「ッ、はせべくん」

 汗をひとしずく落とし、俺を見下ろす光忠が何事かを囁く。吐息に溶けてしまったそれは、唇の動きだけで俺に新たなCommandを伝えてきた。イって、と告げられた身体に電流が走る。

「ぁ……ひゃあぁあアァァッ!」

 びくびくと全身を痙攣させ、俺はほとんど吠えながら果てた。腹に収めた雄をきつく締めつけ精子をねだる。光忠は達して過敏になっている内壁をさらに数度責め立て、ようやく子種を吐き出した。

「ァ、は……ふわぁ……」

 手足を投げ出し、絶頂の余韻に耽る。Kneelをして以来ずっとそうだが、頭が熱を持ったようにぼんやりして思考が定まらない。ただし病気の症状とは違って心地良く、得がたい感覚だった。

「長谷部くん、とっても可愛かったよ。ちゃんと後ろで気持ちよくなれたね。えらいえらい」

 長い射精を終えた光忠に労られる。欲しい言葉を掛けられた、と真っ先に本能が理解した俺は、トんだ。

 

 第二の性を知って十年以上経つのに、俺は自身の性やPlayの内容について疎い。パートナーを作る気など皆無だったから、十分に満たされたSubがどうなるかなんて知る由もなかったわけだ。

 Sub spaceに入り、惚けた俺はベッドに入った今も光忠のケアを受けている。後始末から着替えまで面倒を見るのは疲れただろうに、光忠はまるで辟易とする様子を見せない。それどころか満面に喜色を湛えて俺を抱き込み、あやすように背を撫でている。

「本当にDomじゃないのか、と性別を疑うくらいの甲斐甲斐しさだなあ」

「長谷部くんのお世話ができるなんて、僕にとってはご褒美でしかないからね」

「素質の塊か?」

「長谷部くん限定だよ。君以外の誰も束縛したいと思わないし、優しくするつもりもない」

「きっと、そういうところなんだろうな」

「えっ何が?」

 Domのような愛し方をしながら、光忠がNormalの範疇に収まっているのは何故か。他人への執着心が薄いこいつにとって、支配欲に振り回されるダイナミクスは邪魔になるに違いない。この自立心が強い男は、自らの性にすら囚われたくないのだろう。変に遠慮して、空回りばかりしていた俺は、まだまだ長船光忠への理解が足りないらしい。

「長谷部くんにとって、第二の性は忌むべきものかい」

「何でだ?」

「中学の頃は秘密にしてたし、色々とその……酷い目にも遭ったじゃないか」

 長い指先が俺の喉に触れる。遊んでいる演技として利用した痣は件のストーカーに刻まれたものだった。

 確かにSubという性は災厄の種ばかり運んできた。そのうちの一つは俺が積極的に育てたものだが、Normalだったらと考えた過去は枚挙に暇がない。

「中学の頃はな、お前への下心に気付いた切っ掛けがこれだったんだよ。打ち明けたら、下手すると俺の気持ちまでバレて光忠に距離置かれるかも、って怖かったんだ」

「性別の不一致くらいで長谷部くんを嫌うわけないだろう」

「年頃の男子の心は繊細なんだ。まあ隠すのは面倒だったし、偏見は強いし、変な連中に絡まれるしで、第二の性に良い思い出なんてなかったが」

 添えられた手で自らの首を覆う。過去の負債をまるごと隠してしまうパートナーのてのひらは大きく、とても頼もしい。

「どこまでもお前のものになれる体質と考えたら、悪い気はしないな」

 光忠は俺だけに独占欲を有し、俺は己の全てをかけて光忠に尽くすことができる。

 一般的なDomとSubのような関係性とは異なるかもしれないが、俺たちはこの在り方こそが互いにとっての理想なのだと信じたい。

「長谷部くんはそういうところなんだよなあ」

「何が?」

 似たような問答をしながら二人で夜を過ごす。

 いつしか日付は変わり、期限の七日目を迎えたが焦る必要はない。きっと俺たちには八日目も、それ以降の未来も約束されている。

 

 

    × × ×

 

 

「@断然ナマハメ系tuber様

 突然のDM失礼致します。先日RTされていたこちらの投稿ですが、写真の人物を特定いたしました。

 現在△△区の××町に向かって歩いております。目的地は駅のようですが、おそらく途中でタクシーを拾うでしょう。お住まいが△△区と聞いておりましたので、取り急ぎお報せした次第です。

 先日の生配信大変楽しませて頂きました。宜しければご活用下さい」

 

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    × × ×

 

 

「なあ長谷部」

 すっかり馴染みとなった知人を呼ぶ。可愛い弟分は不在だった。なればこそ、「有り得ない」たらればの話題を取り上げることができる。

「もしもの話なんだが、光坊がきみを手に入れるために悪さをしてたとしたら怒るか?」

「もしもの話か」

「ああ、もしもの話だ」

 長谷部はふむ、と考えるような仕草をして卓上のクッキーを摘まんだ。二人で同棲するようになって以来、光坊は菓子作りにも手を出している。

 昔から器用な男だった。文武両道、眉目秀麗、高校では少し荒れたようだが基本は温厚篤実と隙が無い。唯一恋愛には苦戦を強いられたものの、今では将来を誓い合った伴侶もいる。こうして要点だけ並べると、漫画やアニメの主人公みたいなやつだな。もっとも、長船光忠が真っ当なヒーローになり得ないことは、俺が誰より知っているんだが。

「何をしたかは知らないが」

 恋人とお揃いらしいマグカップを置き、長谷部はにやりと口元を歪めた。

「俺を手に入れるための悪さなら可愛いやつと笑ってやるだけさ。ヤクザの若頭と添い遂げようと言うんだ。それくらいの胆力は求められて当然だろう」

 なるほど光忠が惚れるのも頷ける。端整な顔立ちと藤色の双眸はその気がない俺だって魅力的だと思える。男を知った笑みは妖艶と評しても差し支えないだろう。

 しかし、この微笑はそんな蠱惑的なものではない。かつて対峙した女郎蜘蛛たちを記憶の棚から引っ張り出す。まかり間違っても光忠には言えないが、問いに答えた長谷部からは、過去の毒婦たちと同じ匂いがした。

「まあ腕が良いなら演者が脚本を書いたっていいんじゃないか」

「ほう、長谷部から見た光坊の脚本は面白そうか?」

「ああ。こう見えて結構好きだぞ、B級映画」

 弟分のパートナーは存外辛口である。

 何にせよ本人たちが良いなら第三者が口を挟むべきじゃないだろう。

 世はなべて事も無し。名作だろうがB級だろうが、最後に登場人物が笑顔で終われる作品は良いものだ。そういうことにしておこう。

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