苦い日々に、ミルクを注いで
二階堂かなこ
「それじゃあ、始めようか」
目の前の男にそう言われて、長谷部の胸は甘く高鳴った。これから与えられる感覚を想像して、体が少しだけ震える。
「"Kneel"」
男が発したコマンドに従い、長谷部は男の足元にぺたりと座り込んだ。
「いい子だね」
男は満足そうに微笑み、長谷部の頭を撫でてから頬をくすぐるように手を触れさせた。それが心地良くて、長谷部は男の手に頬を擦り寄せた。
「ん、光忠……」
うっとりしながら、長谷部は男――光忠のことを見上げる。光忠と目が合って、それにもまた悦びを感じた。
「次の命令にいこうか。"Lick"」
舐めろと命令され、長谷部は頬に触れていた光忠の手を顔から離し、その指先にそっと舌を這わせた。
「んっ」
それだけではすぐに物足りなくなり、長谷部は光忠の指を第二関節まで口に含む。夢中になって口内で舌を這わせ、たまに吸い上げることもすれば、頭上の光忠が熱い息を吐き出すのを感じた。
「さぁ、もう終わりにして」
光忠に言われ、長谷部は口から指を離す。顔を上げると、先程よりも満足そうに微笑む光忠が、長谷部のことをしっかりと見ていた。
「上手にできたね……"Good boy"」
褒められて、長谷部は身も心もふわふわと気持ちよくなる。気持ちよくて、心地良くて――どこまでも満たされていく感覚に酔いしれる。
光忠はDomであり、長谷部はSubであった。故に、長谷部はこうして光忠の命令に従っている。
全て合意の上で行っており、これも何度目かのプレイであるが、二人の関係はパートナーというものではなかった。かといって、その前段階の仮パートナーという関係でもない。もちろん、恋人というものでもない。二人の関係は、友人というものである。
長谷部はこの数カ月、友人の光忠と『プレイするだけ』という関係を持っていた。
◆ ◆ ◆
話は一年近く前に遡る。
長谷部国重は、大手企業に勤めるサラリーマン。その長谷部の勤め先に、社内カフェが新しくできることとなった。元々あった広いフロアの休憩スペースに、人気のカフェが監修した店が常設されるというものだった。購入は食券制。コーヒー等の飲み物だけでなくスイーツも豊富に取り揃えたメニューで、テイクアウトにも対応している。その手軽さや見事な味から、社内カフェはすぐに社員の間で人気になった。
長谷部も社内カフェができてから数日後に、お試し感覚でコーヒーを飲みに行った。それがとても美味しくて気に入り、以降は週にそれなりの頻度でコーヒーを飲みに社内カフェへ赴くようになった。
ある日、長谷部がいつも通りに一人でカフェを訪れ、カウンター席に座ってコーヒーを注文した時だった。いつもコーヒーカップと共に渡される紙ナプキンが、一枚多かった。少し気になったので紙ナプキンを一枚手に取って見てみると、そこにはなにやら絵が描かれていた。なんともいえぬ画力で描かれた猫が「おつかれさまニャー」と笑顔で言っている。
「ブフッ」
それを見て、長谷部はおもわず吹き出してしまった。そのまま顔を上げると、カウンター越しに目の前にいる男と目が合った。店員であるその男は、長谷部を見て少し困惑した様子を浮かべていた。
「絵、下手でしたか?」
「いや、それなりにうまいかも……。あなたが描いたんですか?」
「はい。よく来てくれるので、嬉しくて……」
それが、長谷部が社内カフェの店員である長船光忠と初めてした会話だった。
この社内カフェは常連が多いが、そのほとんどが複数人で来てテーブル席に座ったり、テイクアウトで注文をしてすぐに去っていく。一人で来てカウンター席に座る者もいるが、本やパソコンとにらめっこして一人の世界に入っていることが多い。そんな中、いつも一人でカウンター席に来て、のんびりコーヒーを楽しんでいる長谷部は光忠の印象に強く残っていたそうだ。店員に覚えられていたことは少し恥ずかしかったが、その後の会話が弾んで楽しかったこともあり、長谷部は光忠に対して良い感情を持った。
その日から、長谷部はカウンター越しに光忠と会話をするようになった。話しているうちに年齢が同じ二十八歳なこと、この社内カフェの店長は実質光忠であることがわかった。「俺と同い年で店長はすごい」と言えば、光忠は「オーナーがいるから、トップはその人だよ」と謙遜した。しかし、この社内カフェのメニューのいくつかは光忠が考案したり、開発に携わったりしたらしいので、やっぱりすごいと長谷部は思った。
そうして二人は、友人として良好な関係を築いていった。
転機は、そこから半年近く経った頃だった。
仕事が終わって退社しようとした長谷部は、会社を出る前に具合が悪くなり、途中の休憩スペースで座って休んでいた。
「はぁ……」
頭を押さえながら溜め息を吐く。この体調不良は、Subの欲求不満状態からくるものだった。
パートナーがいない長谷部は、普段は抑制剤を飲んで生活している。いつもはそれで問題ないのだが、天候や疲労の溜まり具合、精神状態の関係などで強めに体調を崩すことがあった。今がそれである。
少し休めば治まってくるのは、これまでの経験からわかっていた。しかし、治まるまでがなかなかつらい。頭痛はするし「誰か命令して」なんて欲求が内側で渦巻いて、それが気持ち悪くてしょうがない。
「あれ……長谷部くん?」
そんな時、知っている声が長谷部に呼びかけてきた。顔を上げると、そこにいたのは光忠だった。いつものカフェの制服ではなくて私服で、カバンも持っている。社内カフェは会社の定時に合わせて閉まるので、光忠もこれから帰るところなのだろう。
「こんなところでどうしたの?」
「ちょっと、具合が悪くて……」
「え、大丈夫?」
「ああ、少し休めば帰れる……うっ」
急に気持ち悪くなり、長谷部は咄嗟に口元を押さえた。今日は週末。長かった仕事をやっと片付けたので、かなり疲労が溜まっているせいか、体調不良がいつもよりひどい。
すると、そんな長谷部を見た光忠が「今から僕の家に来ない? 心配だよ」と提案してきた。長谷部はその提案に乗ろうとは思えなかった。
「いや、そんな迷惑は……」
「長谷部くんのその体調不良、もしかしてSubの欲求不満状態からくるものじゃないかな?」
光忠と互いの第二性の話はしたことがなかった。長谷部はどちらかといえば自分がSubであることは隠したかったので、自分から話そうとしたこともなかった。
だがこの時、光忠になら明かしてもいい、と思った。
「そうだ……。俺はSubで、いつもは抑制剤でなんとかできてるんだが……たまに、こんな風になる」
光忠は長谷部の言葉を深刻な表情で聞いていた。それからしばし考えるようにしてから、次にこう言った。
「それなら、君の力になれると思うんだ」
「え、それはどういう……」
そして長谷部は光忠に手を引かれ、あれよあれよという間に光忠の家まで連れて行かれることとなった。マンションの一つの号室に入り、リビングと思しき部屋に向かい、そこに置かれたソファに並んで座る。そうしてから、光忠は長谷部の顔をしっかりと見つめて言った。
「僕、Domなんだよね。だから、ちょっとプレイしてみない?」
長谷部はこれまでパートナーがいたことがない。プレイも未経験だった。体調が悪い中でそう提案され、不安が大きく長谷部の中に生まれる。
それでも、光忠ならいいと思った。他のDomだったら絶対に嫌だったと思う。だが、光忠ならいいと思えたのだった。
「……頼む」
そうして長谷部は頷いた。セーフワードは長谷部の方から言って『Red』に決め、プレイが開始される。
「無理はしないでね。……"Kneel"」
光忠がコマンドを発した。それを聞くと長谷部の体は体験したことのない感覚を得て、気がつけば長谷部はソファを下りて、光忠の足元にぺたりと膝をついて座り込んでいた。光忠を見上げる。光忠は目を細め、長谷部の頭を優しく撫でてきた。
「"Good boy"」
また長谷部の体は初めての感覚を得る。ふわふわと気持ちがよくて、安心できるような感覚だった。
「ここにおいで。"Come"」
光忠は自身の腿を軽く叩きながら、また別のコマンドを発した。長谷部はそれに従い、光忠の示した位置に座る。光忠と顔の距離が近くなって、少しだけドキドキした。
「ちゃんとできたね。"Good boy"」
また頭を撫でられながら褒められ、長谷部は「嬉しい、気持ちいい」と感じた。内側から湧き上がるこの感覚も、光忠に撫でられるのも、全てが気持ちいい。はぁ、と長谷部が一つ息を吐き出すと、光忠はゆっくりと手を離していった。
「顔色も良くなったね。終わりにしようか」
光忠にそう言われて、プレイは終了となった。長谷部は光忠から下りて、光忠の隣に再び座った。
ふわふわとした心地良さは、プレイを終えてからも少し続いた。それがだんだん引いてきて、思考が冷静になったところで長谷部は大層驚くこととなった。
「全部、治ってる……」
先程まで感じていた体調不良が、綺麗さっぱりなくなっていた。むしろ、調子が良くなっているとさえ感じる。プレイに相当の効果があることは知識として知っていたが、これほどまでとは思わなかった。
「ありがとう、本当に助かった。おまえの手を煩わせたな……すまない」
「大丈夫だよ、気にしないで。力になれたのならよかった」
長谷部が礼と詫びの言葉を伝えれば、光忠は自分も嬉しいと言うように笑った。
その後は、そのまま光忠の家で夕食をいただいていくことになった。全て光忠が作ったというその料理は、どれも美味しかった。
そして食事中、長谷部は光忠からこんな提案をされたのだった。
「ねぇ。長谷部くんさえよければ、これからも定期的にプレイしない?」
続けて話を聞けば、光忠も恋人やパートナーがおらず、普段は抑制剤を飲んで生活しているらしい。今後はこんな風にプレイで欲求が解消できればいいかもしれない、と先程思ったようだった。
「短い時間だったけど、さっきのプレイで僕と長谷部くんはかなり相性が良いと思ったんだよね」
「それは……俺も感じた。なんとなく、だが」
「どうかな? これからもさっきみたいにプレイをするのは」
「それはつまり……俺と光忠がパートナーになるということか?」
「そこまでしっかりしたものじゃなくてもいいよ。パートナーの前段階の仮パートナーよりももっと気軽な……本当にプレイするだけの友達みたいに思ってくれても」
光忠のその提案を、長谷部は良いものだと思った。他の誰かとならそんな関係は嫌だと感じるが、光忠ならいいと思えた。なので長谷部は、光忠の言葉に頷いたのだった。
こうして二人の『プレイをする友達』という新しい関係が始まった。今まで交換していなかった連絡先も交換した。
プレイをする場所は、いつも光忠の自宅だった。最初のうちは週末にだけ訪れていたが、長谷部の住んでいるマンションからかなり近いこともわかって、平日の真ん中に訪ねることも増えていった。
使うコマンドも最初はKneelとComeだけだったが、徐々にその種類は増えていった。光忠はLickが好きらしく、よく長谷部に指などを舐めることを命令してくる。その延長で長谷部が光忠の陰茎を舐めたり、性欲に繋がって互いのものを扱き合ったりしたことがあるが、長谷部は「男同士だからこういうこともあるだろうし、セックスとは言わないだろう」と、あまり深く考えずにいた。服を脱いで裸を見せたことも、キスをしたこともない。
そして二人のこの関係は、誘う際に遊び心が入るようにもなった。長谷部が社内カフェに来店してコーヒーを注文し、コーヒーカップと共に渡される紙ナプキンの右下端が折られていたら「今夜、家に来ない?」という光忠からの誘いを意味する。長谷部はそれに対して、コーヒーを飲み終わって去る時、使用した紙ナプキンを綺麗に折りたためば「イエス」、丸めるようにくしゃくしゃにすれば「ノー」という返事をしていた。テーブルマナーの観点から見ればいろいろ間違っているだろうが、二人だけのこの暗号を、長谷部はなかなか楽しんでいた。
この関係がいつまで続くのか。このままでいいのか。そんなことは特に考えず、日常の一部として光忠のことをすっかり受け入れていた。
◆ ◆ ◆
その日も光忠から誘われ、長谷部は光忠の自宅で夕食を共に食べていた。まずは食事をして、その後にプレイをするのがいつもの流れである。
普段と変わらず、長谷部は光忠と他愛のない話をする。しかし、光忠の様子がなんだかいつもと違うように感じた。元気がないような、何かをずっと考えているような様子だった。
もしかして、仕事で嫌なことでもあったのだろうか? 長谷部は、プレイの後で光忠に直接聞いてみようと思った。友達だから、悩みを聞くぐらいはしてやりたい。
二人が食事を終えると、光忠は椅子から立ち上がり、皿も片付けぬまま長谷部に呼びかけてきた。
「長谷部くん、プレイしようよ」
長谷部も椅子から立ち上がる。
「あー……その前にトイレに行かせてくれないか」
「あとでいいでしょ。"Kneel"」
「ッ!」
唐突に発された光忠のコマンドに驚きながらも、長谷部の体は従ってその場に座り込んだ。こんな風に強引な光忠は初めてだった。顔もいつもより表情が消えたものをしている。
光忠が長谷部の側まで近づいてくる。光忠は身を屈め、長谷部の顎を指先で撫でながら「"Good boy"」と言った。その後すぐに長谷部の腕を掴み、長谷部を立ち上がらせて腕を引く。
「いい子の長谷部くん、こっちにおいで」
「おい、まて」
光忠は長谷部の声を聞かず、そのまま長谷部をソファに押し倒した。そして長谷部を組み敷く形で上に乗ってくる。
「動かないで。"Stay"」
コマンドにされてしまったので、長谷部は自身を組み敷く光忠から目を逸らすことも、逃げることもできなくなった。
光忠が顔を下ろしてくる。そして長谷部の頬にキスを落とした。
「……!」
光忠は小さく音を出しながら、何度も長谷部の頬にキスをした。そのキスはだんだんと下がっていき、首筋にも同じように唇を触れさせてくる。こんな行為は、今までされたことがない。なんなんだ、これは?
「長谷部くん……」
光忠がそう呟きながら、長谷部の額に自身の額を擦り合わせてくる。息が触れるほどの距離にドキリと胸が疼いた。
そして光忠は、更に顔を近づけてくる。このまま行けば、光忠の唇と長谷部の唇は触れ合ってしまう。そこまで来たところで長谷部は「流石に何かがおかしい」と感じ、同時にこの状況から脱する手段を思い出した。
「ッ、"Red"!」
初めてプレイをした時から決めていたが、これまで一度も使ったことがなかったセーフワードを叫ぶように口にした。すると光忠はハッとして、急いで体を起こした。
「ご、ごめん……!」
光忠はまず謝ってきた。その顔は表情の消えたものではなく、申し訳なさそうに眉を下げたものをしていた。長谷部は体を起こし、光忠を問いただす。
「今日、随分と強引だったな。何かあったのか?」
「な、何も……ないよ……」
「食事の時から様子がおかしかった。何もないわけないよな?」
長谷部の詰問に対して、光忠はしばし口を噤んだ。そしてようやく口にした言葉は、あまりにも予想外のものだった。
「君が欲しかったんだ」
「……は?」
長谷部は間の抜けた声を出すことしかできなかった。光忠はそんな長谷部を気にすることなく、必死な様子で言葉を続けた。
「君が欲しいんだ。プレイをする相手とか、そういうのじゃない。長谷部くんが欲しい、長谷部くんのことが好きだ……!」
それは、紛れもない愛の告白だった。ずっと友達だと思っていた光忠から告白をされ、長谷部は動揺で言葉を返せなかった。
「長谷部くん、僕のものになってよ……」
光忠が懇願するように手をのばしてくる。光忠の指先が頬に触れたところで、長谷部は反射のように動いてしまった。光忠の手を自身から振り払い、そのまま光忠の頬に平手打ちをしたのだった。
「……」
頬を打たれた光忠は、再度長谷部に向き合うことも、言葉を発することもしなかった。
「……トイレ借りる」
そんな光忠を放るように、長谷部は一人ソファから離れ、トイレに入った。
用を済ませてからも、長谷部はトイレからすぐに出られなかった。この後、光忠と何を話せばいいのか。どんな顔で接すればいいのか。無視して帰ろうとも思ったが、何か言われたらどう返事をすればいいのか、わからなかった。
なるようになれ! そう思いながらトイレを出ると、トイレの前には光忠が立っていた。光忠の手には、長谷部のスーツの上着とカバンがあった。
「これ」
長谷部がすぐに帰ると思ったのだろうか、光忠は上着とカバンを手渡してきた。長谷部はそれらを乱暴に奪い取り、駆け足で家を出て行った。
息を切らしながら走り、光忠の自宅マンションからだいぶ離れたところで一度足を止める。
先程起こったこと、言われたことが、どういうことなのかわからなかった。いつからそう思っていたんだ。俺たちは友達じゃなかったのか?
様々な気持ちを抱えたまま、長谷部は夜道をゆっくりと歩いていった。
◆ ◆ ◆
翌日。長谷部は社内カフェに行くことをやめた。カフェに行くのはほとんど日課のようになっていたが、昨日の今日では光忠と顔を合わせにくい。
しかし退勤時刻の少し前、光忠から「昨日のことについてちゃんと話したい」とスマホにメッセージが送られてきた。話をすることは確かに必要だと思い、長谷部はそれに応じることにした。
そして会社を出てから、長谷部は今までのように光忠の自宅マンションへ赴く。号室のインターホンを鳴らすと、光忠はすぐに出てきて長谷部を室内へ招いた。
リビングに行くと、テーブルの上にはすでに二人分の食事が用意されていた。
「今日も食べていく?」
「……この後の話次第だな」
二人は食卓の席やソファに腰を下ろさず、立ったまま話を始めた。
まず長谷部が、単刀直入に昨日の告白について尋ねた。
「昨日のあれは、本心なのか?」
「うん、そうだよ」
「……いつから、そう思ってたんだ?」
「長谷部くんとプレイをするようになって、割とすぐの頃かな」
それは現在から数えると、約半年前の時期だ。光忠は随分と長い間、長谷部への想いを秘めていたようだった。
「じゃあ、どうして昨日はあんなに強引になった?」
それだけ長い間想いを秘めていたのなら、これまでは内側にしまえていたということになる。それが爆発するように表に出てきたのはなぜなのか。そう思って尋ねると、光忠は少し沈黙してからゆっくりと話し始めた。
「昨日の昼のこと、なんだけど……。カフェに、君の部署の人が来たんだよね。役職で呼ばれてたし、長谷部くんの話をしてたから、同じ部署の上司だと思ったんだ」
どんな容姿だったかなどを聞けば、それは確かに長谷部の上司だった。長谷部の上司は、別部署の上役と二人でカフェに来たらしい。座ったのはテーブル席とのことだった。
「聞くつもりはなかったんだけど、話の内容が耳に入ってきちゃったんだよね。そこで長谷部くんについてこう話してたんだよ。娘とお見合いしないか誘ったら『好きな人がいるから』という理由で断られたって」
そこで光忠は「長谷部くんには好きな人がいる」と知ってしまい、気持ちが抑えられなくなって昨日の強引なプレイに繋がったとのことだった。
しかし、それは誤解だった。確かに先日、長谷部は上司から「娘とお見合いしないか」と誘われた。長谷部はこれまで恋愛をしたことがなく、お見合いにもまったく乗り気になれなかったので断ろうとしたが「結婚に興味がない」「仕事に集中したい」といった理由ではすぐに引いてもらえないと思った。なので「好きな人がいるからお見合いはできない」と嘘をついて断ったのだ。本当は好きな人なんていない。
長谷部がその経緯をしっかり光忠に伝えれば、光忠は暗い表情をしてから俯いた。
「ちゃんと確認するんだったね。格好悪いね……」
光忠のこんな様子を見るのは初めてだった。いつも笑っていて、常に余裕がありそうな光忠しか知らなかったので、今の姿を見て少しだけ胸が痛む感覚があった。
「長谷部くんは好きな人がいないなら……僕のことも好きなわけないよね。もうこんな風に会ったりなんてしたくないかな?」
光忠が顔を上げる。今度は一応笑っていたが、長谷部からは諦めも滲ませたような、苦しそうな表情に見えた。
光忠と会うことをやめ、これまでの関係も全て終わりにする。長谷部はそれを嫌だと思った。どう答えるのが正解かはわからない。だから長谷部は、とにかく今思っていることを率直に伝えることにした。恥ずかしいなど、そんなことを考えている暇はなかった。
「俺は……これからも、おまえと友達でいたかった。俺は昔から友人も少なくて……ダイナミクスの話をこんなにできたのも、おまえが初めてだった。だからこれからも、今までの関係を続けたい……」
「……僕が長谷部くんを好きってことには、気持ち悪いと思ったりしないの?」
「気持ち悪いとは思わない。恋愛のことはわからないから……応えることはできないが」
長谷部がそう言ってから光忠はまた俯き、しばしの沈黙が流れる。その後、光忠はゆっくり顔を上げた。表情は、これまで長谷部が何度も見てきた、穏やかな笑顔をしていた。
「それなら、これからも僕と友達でいてほしいな。僕も長谷部くんと疎遠になる方が悲しいよ」
「いいのか?」
「うん。なんなら、昨日僕が言ったことは全部忘れてくれてもいい」
そういうものでいいのだろうか。恋愛はわからない。しかし光忠がいいと言うなら、それでいいのだろうと今は思うことにした。実際、光忠と今後もこの関係を続けられることに、長谷部が安堵したのは事実だった。
その後は、二人で食事をした。プレイはする気分ではなかったので、それを素直に光忠に伝えて、その日は食事を終えてからすぐに帰宅した。
◆ ◆ ◆
光忠は「これからも友達でいてほしい。告白のことは全部忘れてくれてもかまわない」と言った。しかし本当にそれでいいのか? あの場では納得したが、後日そのようにも思った長谷部はこの数日間、それなりの時間光忠のことを考えていた。
たとえば、恋人になったら何が変わるのかを考えてみる。長谷部はSubで、光忠はDomだ。正式なパートナー関係も結ぶことになるだろう。それならまず、プレイの内容が確実に変わると思う。
光忠とのこれまでのプレイで使うコマンドは、大体いつも同じものだった。Lickを除けばKneelやComeなど、公衆の面前で行っても問題ないようなコマンドばかりに従っていた。
恋人としてのプレイとなると、セックスで使うような命令になるだろう。となると、StripやPresentといったところだろうか……。
そう考えたところで、長谷部はこれらを光忠と実践してみようと思った。光忠のことは大事な友達と思っているが、それ以上を考えられないのは、長谷部が恋愛というものをわかっていないせいかもしれない。より密接な行為をすることで、何か新しい気持ちに気づければいいと思った。
そうして長谷部が光忠に誘いをかけたのは、その翌日のことだった。長谷部の方からスマホで連絡をし、退勤後に光忠の自宅へ向かった。
まずはいつものように食事をする。二人とも食事を終えて簡単に食器を片付けたところで、光忠が尋ねてきた。
「それで、いつもより密接なプレイをしたいっていうのは……?」
「俺たち、いつもKneelとか簡単なコマンドしか使ってこなかっただろう。他のコマンドはどんな感じなのか、試してみたくなったんだ」
長谷部は「新しい気持ちに気づきたい」という本来の目的は隠して、単純に「人生経験を重ねたい」といった理由を述べた。光忠は少しの間、考え込むように沈黙したが、やがていつもと変わらぬ笑顔で長谷部に向き合って言った。
「いいよ。それじゃあ、今日はソファじゃなくてベッドに行こうか」
ベッドに誘われて、長谷部はドキリとした。そうなるだろうと予想はしていたが、いざ現実になると緊張が少しずつ湧き上がってくる。
そして光忠に連れられ、長谷部は寝室へ足を踏み入れた。光忠の自宅には何度も来ているが、リビングとトイレにしか入ったことがなかったので、寝室を見るのは初めてだった。部屋の中はしっかりと整理されていて、ベッドメイクも完璧なほどに整っている。もしかしたらこのベッドを汚すかもしれないと思って、少し申し訳なくなった。
光忠は先にベッド上に乗る。「おいで」と呼ばれたので、長谷部も同じようにベッド上に乗って、光忠と向き合った。
「密接になるような深いコマンドっていうのは、具体的にどのぐらいまで使っていいのかな?」
「挿入とか、本格的なセックスにならないなら、なんでも……」
「なんでもって、君ねぇ……」
光忠は顔を覆った。適当に言いすぎて呆れられたかもしれない、と一瞬焦ったが、すぐに顔を上げた光忠の表情は、不快を表すものではなかった。いつものように笑っているが、それは常よりも好戦的な笑みをしていた。
「じゃあ、一旦は僕の好きにやらせてもらうね。駄目だと思ったらちゃんとセーフワードを言うんだよ」
「……ああ」
Subから「なんでも命令していい」なんて言われたら、Domとしての本能が自然と悦ぶのだろうか。光忠の様子を見て、長谷部はぼんやりとそう思った。
「じゃあ、始めようか。"Strip"」
早速光忠から、これまで使われたことのないコマンドが発せられる。初めて使われるコマンドに少し鼓動を速くしながら、長谷部はゆっくりと服を脱いでいった。光忠はそんな長谷部をじっと見ている。男同士なのだから裸を見られることは恥ずかしくないと思っていたが、この時長谷部は「恥ずかしい」という思いを確かに抱いていた。それでも、それを不快だとは思わなかった。
「うん、上手に脱げたね」
長谷部が下着まで脱ぎ、纏っているものが靴下だけになったところで、光忠が体を寄せてくる。それから長谷部の頭をそっと撫でて囁くように言った。
「"Good boy"」
「……ッ」
褒められて、体がいつも以上に悦びで疼いた。
「もうちょっと頑張れる?」
「あ、ああ……」
「じゃあ脚を開いて、僕によく見せて。"Present"」
光忠はそう言ってから、また体を離していった。Presentでは性器を見せることが多く、光忠からの命令もそのようなものであった。長谷部は従って、腿を軽く持って脚を開いた。
「ん……」
鼓動だけでなく、呼吸も自然と荒いものになっていく。光忠は上から下までじっくりと長谷部を見てから「ちゃんとできたね。"Good boy"」と言って小さく笑みを浮かべた。
「こっちにおいで」
光忠が腕を広げ、長谷部を招く。長谷部がそれに従って近づけば、すぐに光忠の胸の中に体を収められた。ぎゅうと抱きしめられ、心地良さを感じた。
少しの間そうしてから、光忠は長谷部を解放する。そして自身のスラックスの前をくつろげ始めた。まだ下を向いている陰茎が姿を現した。
「僕を満足させて。……"Lick"」
この状況でこのコマンドは、つまりはフェラをしろということだ。これは経験がある。長谷部は光忠の陰茎を持ち上げて手を添え、そこにゆっくりと舌を這わせていった。
「んっ……」
熱く息を吐き出しながら、その行為を繰り返す。陰茎がどんどん硬くなっていくのが、触れている手や舌からわかった。
「はふっ、ん……」
下の方や茎の部分だけでなく、先端への愛撫も始める。鈴口を舐めればそこから溢れる蜜の特有の味がして、光忠が悦んでいることに長谷部は自身も悦びを覚えた。
「んん……」
「……いい子だね」
しばしそうしていると、光忠は突然長谷部の肩に触れ、長谷部を陰茎から引き離した。そして肩を掴んだまま、長谷部をベッドの上へ押し倒した。
「ん、何を……」
光忠はそれからすぐ、長谷部を組み敷く形になった。倒れた長谷部の眼前に、光忠の顔がある。その距離の近さにドキリとしていると、光忠が次のコマンドを発した。
「"Kiss"」
コマンドの意味はわかる。キスをしろということだ。長谷部はここで光忠の顔を引き寄せて、キスをしなければならない。
しかし、これまでのようにすぐに体が動かなかった。そして長谷部は、気がつけばこの状況から逃げる言葉を発していた。
「れ、"Red"……!」
言ってから、長谷部は自分で驚いた。なぜ、セーフワードを口にしてしまったのか。自身に驚いている間に、光忠は体を起こして顔を離していった。
「無理させちゃったね、ごめんね」
「いや、無理、というわけでは……」
弁明しようとするが、自分でも理由がよく説明できない。長谷部が戸惑っていると、光忠は優しく微笑んで、長谷部の頬にそっと触れてきた。
「大丈夫だよ。友達とキスをするのは、やっぱり抵抗があるよね」
光忠のその言葉で、長谷部は自分の行動が少し理解できたような気がした。本格的なセックスのように、キスは本当に好きな人、恋人とするものだと自意識の中にあったのだろう。光忠は信頼している友人だが、恋人ではない。それ故に、咄嗟にセーフワードを発してしまったのかもしれない。やはり長谷部にとって、光忠は友人という関係の相手なのだ。
「そう、だな……」
そういうことなのだと、長谷部は自身を納得させることにした。
その日は、プレイはここで終わりとなった。光忠は常と変わらない様子だった。
◆ ◆ ◆
その後も光忠は特に変わった様子を見せなかったので、またその週に光忠の家へ行って共に食事をし、簡単なプレイをすることもした。これからもこうして関係を続けていける。長谷部はそう思っていた。
そんなある日、長谷部は久しぶりに見る名前から連絡を受け取った。それは数少ない学生時代からの友人、宗三からのものだった。宗三は現在は海外で働いているのだが、休暇をとって家族に会いに帰省してくるらしい。その時に久しぶりに会わないかという誘いを受けた。長谷部も宗三に会いたいと思ったので、その誘いにすぐ承諾の返事を送った。
数日後。仕事を終えてから長谷部は宗三と待ち合わせて、近くのレストランへ入った。食事をしながら、会っていない間の近況や互いの仕事の話をしていく。
「そういえばあなた、恋人とかできました?」
食事がある程度済んだ頃、宗三から直球でこういった質問をされた。宗三はこのあたり、なかなか遠慮がないのである。
「直球だな……できてない」
「相変わらずですね。じゃあ、パートナーはどうなんですか? あなたSubだから、恋人よりもこちらの関係を優先しそうですし」
「パートナーもいない……いや、それに近い関係の奴は、いるな」
「近い関係ってなんですか?」
「定期的にプレイをしているDomがいるんだ」
「なるほど。つまり仮パートナーみたいなものですか」
「いや……そこまでしっかりした関係でもないな。会社で知り合った友人なんだ」
「友人とそういうことってするものですかね……?」
「向こうは、ちょっと違ったみたいなんだがな。その、最近のことなんだが……」
そこで長谷部は、光忠との間で起こったここ最近のことを宗三に話した。光忠から告白されたこと。長谷部はその想いに応えられなかったが、光忠からの同意を得て今も変わらぬ関係を続けていることを。それを聞いた宗三は、あからさまに表情を歪めた。
「あなた、随分残酷なことしてますね」
「残酷……」
最良の選択だったとは思っていない。しかし最悪の選択だったとも思っていなかった。だが宗三にそう言われ、胸がゾクリとした。
「残酷、なのか」
「そうですね……。じゃあたとえば、あなたが友達になりたい人がいて、その相手に友達になってほしいと言ったとしましょう。その相手に『友達にはなれないけど、一緒にいるのは嫌じゃないから遊びに行ったりはしてあげる』なんて言われたら、どう思います? 嬉しいですか?」
「あ……」
テーブルの下で、長谷部は両の手をグッと握り込んだ。そんなの、嬉しいわけない。むしろ苦しい。それと同等のことを、自分は光忠にずっと強いていたのか。
「まぁ、これは僕の感じ方ですからね。そういう関係でも嫌じゃなかったり、嬉しいと感じる人もいるかもしれません」
「そう、か……」
今の長谷部には、そう言葉を返すことが精一杯だった。光忠はいつも笑顔で、つらそうな様子など見せたこともなかった。あの笑顔の中で、一体何を思っていたのだろう。
自分は光忠に残酷なことをしている。そう思うと自然と社内カフェへ足が向かなくなり、光忠にスマホで連絡することもなくなっていった。最初から「これからも友達でいたい」なんて言わなければよかったのだろうか。
心に憂いを抱えたまま日々を過ごしていた長谷部は、とある日、午後の仕事が一段落したところで同僚の薬研から声をかけられた。
「なぁ長谷部」
「薬研か……どうした?」
「これから社内のあのカフェに行かないか? 兄弟がケーキの写真を撮ってきてほしいと言うんだが、俺はあのカフェをまだ利用したことがなくてな。長谷部はよく行ってただろ? よかったら案内してくれないかと思ってな」
「……」
薬研の誘いは嫌ではない。しかし、社内カフェに行って光忠と顔を合わせるのが、なんだか怖かった。
だが、一人でカフェに行くわけではなく、薬研と二人で行くのだからテーブル席に座るだろう。光忠の方も、連れがいればこちらに深く関わったりしてこないと思う。薬研には普段から仕事の面で世話になっているので、このぐらいの助けはしてやりたい。意を決して、長谷部はようやく「わかった」と頷いた。
そうして薬研と二人で、長谷部は社内カフェへと向かった。テーブル席に座るつもりだったが、この時間は利用者が多く、テーブル席はどこも埋まってしまっていた。諦めて戻ることを提案しようとしたが、薬研が「カウンターなら二つ空いてるところがあるぜ」と示してしまったので、長谷部は薬研と並んでカウンター席に座ることとなった。はからずも、長谷部の座った席は一人で来た時によく座っている席だった。
予想通り、やはりカウンター越しに光忠と顔を合わせることになる。しかし薬研が隣にいるからか、光忠は店員としての態度だけでこちらに接してきた。各々の食券を受け取ると、光忠はすぐに注文の準備に入った。
「へぇ、こんなに種類があるんだな」
薬研と会話をして気を紛らわせようと思ったが、薬研はメニュー表を開いてそれを見るのに夢中になっていた。気まずいような、居心地が悪いような、そんな時間を長谷部はしばし過ごすこととなった。
「おまたせしました」
やがて、注文した品が光忠から長谷部たちの前に運ばれてきた。薬研の前にはケーキとアイスティー、長谷部の前にはコーヒーが置かれる。コーヒーは、長谷部がいつも飲んでいるものだった。
「おお、すごいな」
「ぜひ写真も撮ってください」
光忠は薬研に応対している。長谷部も自身のコーヒーを飲もうとした。その時、一緒に渡された紙ナプキンの右下端が折られていることに気づいた。
「……」
そもそもこの暗号のようなものを作ったのは、今のように他の誰かが近くにいても、気づかれないように誘いと返事をできるようにしたかったのが始まりだった。光忠に誘われている。しかし長谷部は、それに応える気持ちにはなれなかった。コーヒーを飲み終わってから、長谷部はその紙ナプキンをぐしゃりと丸めてソーサーの上に置いた。
◆ ◆ ◆
その後も、長谷部は光忠と距離をとり続けた。あの日以来、社内カフェには一度も行っていない。長谷部からスマホで連絡をすることもなく、また光忠から連絡が来ることもなかった。光忠がこの状況をどう思っているのか、何を考えているのか、それはわからない。
長らくプレイをしていないので、長谷部の体調は少しずつ崩れていった。欲求不満状態からくる体調不良は以前なら定期的に感じていたものなのに、久しぶりに味わうからか以前よりもつらく感じる。抑制剤である程度は体調を整えることができたが、以前よりも効きが悪い気がした。一度Domのコマンドで満たされることを知ってしまっては、体がそれを欲するのだろうか。良好とはいえない体調の中、長谷部は日々を過ごしていった。
その日は、チームで行っていた大きな仕事がようやく終わった日だった。退勤時刻もまもなくという頃、仕事の片付けをしていた長谷部は、上司から「チーム全員分のコーヒーを社内カフェで買ってきてほしい」と頼まれた。正直、それを引き受けたくはなかった。その理由は『社内カフェに行きたくない』というただ一つだけなのだが。しかし長谷部の片付けはほとんどが終わり、他の社員の片付けはまだまだ時間がかかりそうである。この状況で一番コーヒーを買いに行くべしなのは長谷部だろう。上司が声をかけてきたのもそういう理由だと思う。
テイクアウトだからすぐに済ませられる。長谷部はそう考え、上司の頼みを引き受けて社内カフェへ向かった。食券を買い、カウンター向こうの光忠に「テイクアウトで」とだけ言って、長谷部はカウンターから少し離れた位置でコーヒーができるのを待つ。光忠は私情を持ち込まず、注文通りにコーヒーを作り始めた。
こんな少しの時間でも気まずいような空気がある。早くコーヒーができないかと思っていたところだった。カウンターの向こう側、奥の方から一人の人物が姿を現した。銀髪のその男は、光忠の隣に立った。
「やぁ」
「大般若さん……まだ仕事中ですよ」
光忠が彼の名を呼んだのを聞いて、長谷部はこの男が誰なのかを思い出した。確か、このカフェのオーナーだったと思う。長谷部が一人でカフェに来ていた時、彼はたまに顔を覗かせていたのだった。
「まあまあ、いいじゃないか。ところでなんだけど、この前話したお見合いの件、どうするか考えてくれたかい?」
「あー……前向きに考えておくので、その話はまた今度にしてください」
そんな二人の会話は、長谷部にもしっかり聞こえてしまった。長谷部は困惑した。
お見合い? 光忠が? それも「前向きに考える」なんて……。
胸が痛くなって、体が凍ったように急激に冷えていく。
「う……っ」
唐突に吐き気もこみ上げてきた。長谷部は口元を押さえて少し背を曲げ、そのまま駆け足で近くのトイレへ逃げ込むように向かった。誰もいないトイレの個室に飛び込み、膝を床につけて便器に縋り付くようにうずくまる。だんだん呼吸も荒くなってきて、とにかく苦しくてしょうがなかった。だが体の異常よりも、今の長谷部にとっては心の方が痛くてしょうがなかった。
お見合いってなんだ、俺のことを好きなんじゃなかったのか? 友達でいたいなんてふざけたことを言った上に、勝手に距離を置いたから、ついに見限られたのだろうか。嫌だ、そんなのは嫌だ……!
「長谷部くん!」
そんな時、今一番聞きたい声が長谷部のすぐ側で名を呼んだ。肩も強く掴まれている。苦しくてしょうがない中でゆっくり振り返れば、そこには光忠がいた。
どうして光忠がここに? トイレの個室なのに。そう思った長谷部の視界に、開けられて隙間を作っている個室のドアが入った。どうやら鍵もかけずにうずくまっていたようだ。
「ぁ、みつ……」
「僕はここにいるから大丈夫だよ」
光忠は長谷部の体を、その胸の中へ抱き寄せてきた。
「う、ぁ……」
「苦しいね。自分のペースでいいから、ゆっくり深呼吸してごらん」
光忠に頭を撫でられ、背をさすられ、何度も優しく言葉をかけられる。安心感も胸の内に芽生えてきて、長谷部の呼吸は少しずつ落ち着いていった。
「ちょっと、落ち着いたね」
「う……」
「長谷部くん、アフターケアとしていつもより深いコマンドを出すけど、いい? 嫌だったら、ちゃんとセーフワードを言うんだよ」
アフターケア。深いコマンド。そんなものを必要とするということは、Sub dropにでもなってしまったのだろうか。少し落ち着いたとはいえ、まだ呼吸は苦しいし頭もうまく回らない。
でも、光忠なら大丈夫だ。光忠ならなんとかしてくれる。
ぼうとする頭でそう思い、長谷部はゆっくりと頷いた。そして光忠が、コマンドを発した。
「"Kiss"」
以前出されて従えなかったコマンドが、長谷部の耳に届く。しかし今度は自然と体が動いた。長谷部は光忠の首に腕を回し、光忠の唇に自身のそれを触れ合わせた。
「あっ……」
一度では足りない。そう思い、何度も同じように唇を触れさせる。気持ちいいと思った。呼吸が苦しい中でキスなんてしたらもっと苦しくなりそうなのに、どうしてかどんどん体は楽になっていく。そして変化は体だけではなく、心の中でも起こっていった。
光忠とキスができて嬉しい。光忠とずっとこうしていたい。こんなこと、友達に対して思ったりしない。そうだ、俺はきっと、とっくに光忠のことを……。
「はぁ……」
ひとしきりキスをしてから、長谷部はまた光忠の胸に顔を埋める。光忠はゆっくりと長谷部の頭を撫でてくれた。
「よくできたね。"Good boy"」
その言葉が、褒められることが嬉しくてたまらない。他のDomに同じことをされても、こんな気持ちにはならないと思った。
やがて光忠は抱擁を解き、長谷部と向き合った。その瞳は穏やかな色をしていて、長谷部を安心させようとしているようにも見えた。
「もうすぐ退勤の時間だよね。長谷部くんももう帰れるのかな?」
「うん……」
「それなら僕の家に行こう。コーヒーは、あの数をテイクアウトなら他の人の分もあるのかな。僕が代わりに届けてくるから、誰に渡せばいいか教えてくれるかい?」
「うん……」
長谷部は、光忠に上司の名前と容姿、チームの皆がまだ片付けをしている部屋を伝えた。光忠は「わかった」と頷いた。
「それじゃあ、僕がコーヒーを届けてくるからね。長谷部くんの荷物もその人たちに聞けばどこにあるかわかるんだね。すぐに戻ってくるから、ここでいい子で待っていられるかな?」
「……うん」
「よし」
長谷部の頭をしっかり撫でてから、光忠は長谷部を床ではなく便座に座らせる。そして少し駆け足でトイレを出て行った。
「……」
もう呼吸は苦しくなく、体調不良も感じない。頭はまだ少しぼんやりしているが、物事はしっかりと考えられる。しかし先程自覚した自分の気持ちを思うと、また頭がぼうとしてくるのだった。
◆ ◆ ◆
光忠は私服に着替えた姿で、長谷部の荷物と共にトイレに戻ってきた。そして光忠に手を引かれながら、長谷部は光忠の自宅へと招かれた。
きっとこれから、大事な話をするのだろう。そう確信しながら、長谷部は光忠に促されるままソファに腰を下ろした。光忠もその隣に腰を下ろす。
「オーナーとしてたお見合いの話、聞いてたのかな?」
光忠の問いに、長谷部は頷いて返事をした。
「それを聞いて、どう思ったの?」
「……っ」
自分の気持ちはもうはっきりとわかっている。しかし伝えるには勇気がいる。
「ちゃんと教えて。"Say"」
戸惑っていると、コマンドとして命令されてしまった。こうされては逆らえない。長谷部は自身の思いをゆっくりと口にしていった。
「……光忠は友達だから、もし光忠が誰かと結婚するとかなったら、ちゃんと祝えると思ってたんだ。でもあの会話を聞いた時……そんなこと、無理だと気づいた。光忠には、俺だけ見ていてほしい。俺にだけ命令してほしい。他の誰かのところになんて、行かないでほしい……」
長谷部は俯きながら、両の手をぐっと握り込んだ。こういう気持ちを伝えるのは苦しいのだと知る。それでも、命令されたから。いや、命令でなかったとしても、伝えなければいけない、伝えたいと思った。
「こんな気持ちを『好き』と言えるのなら、俺は、光忠のことが……好きなんだと、思う」
言いながら、涙が零れてしまった。今更光忠が好きだと自覚しても、もう遅い。光忠は、長谷部の知らない誰かとのお見合いを視野に入れているのだから。
光忠はそんな長谷部に身を寄せ、長谷部の顔を上げさせる。そして目元に優しく指を触れさせた。
「泣かないで、長谷部くん」
「な、泣いてない……っ」
「あのね、長谷部くん。僕はオーナーの言っていたお見合いの件、受けるつもりはまったくないよ。仕事中だし、長谷部くんもいたから早く話を終わらせたくて、あんな風に嘘を言ったんだ。……なんだか、少し前の長谷部くんと似たようなことしちゃったね」
そして光忠は、長谷部の頬を両手で優しく包み込む。
「僕が好きなのは、ずっと長谷部くんだけだよ」
声も表情も手の温もりも、全てが優しかった。そんな光忠の言う「好き」は、とても綺麗なものだと思った。それに比べて、自分はどうなのだろう。
「……おまえの『好き』は、綺麗だな。それに比べて、俺はどうだろう。Subのくせに独占欲みたいなものを……」
「それを言うなら、僕だって君に独占欲があるよ。僕だけのものにしたいって、ずっと思ってる」
「そ、そうか……」
突然欲求を直接的に伝えられ、少しドキリとした。光忠は長谷部の顔から手を離していく。
「ねぇ長谷部くん。長谷部くんは、僕を所有するようにしてプレイだけできれば、それでいいのかな?」
「……それは違う。プレイだけじゃなくて、食事を共にしたり、なんでもない話をするのも楽しくて好きだった。たまに話が合わない時はあったが、気は合うと思うし……一緒にいて苦痛なことは、一度もなかった」
光忠は長谷部の言葉を聞くと、穏やかに目を細めた。
「それなら、長谷部くんの『好き』もとても綺麗なものだよ。僕だって、同じような気持ちから長谷部くんのことを好きになったんだ」
光忠の気持ちもしっかりと教えてもらう。光忠もプレイだけでなく、長谷部と食事や会話を重ねることでより強く惹かれていき、長谷部のことを好きになったということだった。同じなんだと思えて、長谷部の心は随分と楽になった。
「僕たち、恋人やパートナーになっても今あるものは変わらないよ。これからも一緒にいろいろなことをしていこうよ」
「だが俺は……告白された時にぶったし、ずっとおまえを苦しめるようなことを……」
「……じゃあ、そのことを忘れられるぐらい、僕を幸せにして。僕と一緒に幸せになって」
そう言う光忠の表情は優しいものだったが、瞳は本気の色を湛えていた。
長谷部は光忠のその言葉が嬉しくて、同時に納得することもできた。確かに、恋人や正式なパートナーになったとしても、今あるものがなくなることはないだろう。むしろ、今よりもっと強固な関係になれる。思えば、初めてプレイをした時から、光忠のことは特別な存在として見ていた。恋愛がわからないとか、難しく考えることはなかったのだと今になって気づけた。
「長谷部くん。まずは……僕と恋人になってください」
長谷部はその言葉に頷き――光忠と、恋人という関係になった。
◆ ◆ ◆
「週末だし、体調崩したり泣いたりしたから疲れたよね。泊まっていきなよ」
光忠にそう言われ、長谷部は初めて光忠の家に泊まることとなった。食事はいつもと同じように共にして、風呂は交代で入ることになった。先に光忠が入浴し、その後に長谷部が入浴する。自分の家よりも広い風呂場に、少しテンションが上がった。
体を洗い、湯船に浸かりながら長谷部は考える。「光忠のことが好き」という気持ちを自覚し、恋人という関係になったことで、長谷部の中には新たな欲求が生まれてきていた。
「……よし」
あまりにも大胆というか、恥ずかしい気持ちは確かにある。しかし長谷部は意を決して、それを実行に移すことにした。
風呂を出て、光忠の貸してくれた寝間着に着替える。夜もいい時間になっているので、今日はこのまま寝る予定だった。寝室へ行くと、光忠はベッドに座って長谷部のことを待っていた。
光忠も今日はこのまま寝るつもりでいるのだろう。長谷部はそんな光忠の隣に座り、スリ、と体を寄せて口を開いた。
「……してみたい」
「プレイかな?」
「それもだが……せ、セックスを」
「え……」
自分の気持ちを自覚できたら、急にそうしてみたいという欲求が高まったのだった。というか思い返せば、ここ数カ月で自慰のオカズにしていたのはいつも光忠だった。光忠にコマンドを出されたり褒められたりしながら、体を触られる妄想で抜いていた回数はそれなりだったと思う。すでにその頃から好きだったんじゃないか、と自分の鈍感さに呆れた。
光忠はしばし固まって黙っていたが、やがて長谷部の誘いに返事をした。
「じゃあ、コマンドも使いながらセックスしよう。嫌だったらすぐに言うんだよ」
長谷部は頷いた。光忠は長谷部の前に手を差し出す。
「"Lick"」
これはもう何度もしているから、気持ちの面でも慣れがあった。長谷部は光忠の手を軽く持って、その指に舌を這わせていく。それだけでは足りなくなって、すぐに指を咥えて吸い上げることもした。ちゅ、と少し濡れた音が二人の間で響く。
「"Kiss"」
そして次のコマンドが発せられる。これは慣れていない命令で、一度は止めてしまったことがあるものだが、もう長谷部の心に戸惑いはなかった。長谷部は光忠に顔を近づけ、しっかりと唇に口付けた。
「は……」
顔を離すと、光忠がゆっくりと頭を撫でてくれた。
「"Good boy"」
褒められたことで、悦びと共に体が熱くなってくる。これまでのプレイよりも嬉しくて幸せで、なんだかふわふわとした心地良さがあった。
「さ、次にいこうか。"Strip"」
長谷部は光忠から離れ、ベッドの中心あたりまで移動する。そして膝立ちになり、光忠に見せるようにしながらゆっくりと服を脱いでいった。長谷部が最後に纏っているもの、下着を脱いだところで、光忠も長谷部のすぐ側まで移動してきた。そして耳元に顔を寄せて囁く。
「上手だよ」
「んっ……」
声と共に吹き込まれた息にも体が反応して、長谷部は声を漏らした。
「ねぇ、僕の服も脱がせて」
「光忠、も……?」
「セックスするなら、服は脱ぎたいよね」
自分から誘ったくせに、光忠からハッキリその単語を出されてドキリとした。そうだ、俺たちはプレイだけじゃなくて……セックスもするんだ。
長谷部は頷き、光忠の服に手をかける。シンプルな寝間着だったので、脱がせ方に手間取ることはなかった。すぐ目の前で露わになっていく光忠の肌を見て、胸が高鳴る。最後に下着を下ろして、そこから現れた陰茎を見たことで、鼓動はどんどん速くなっていった。見るのは初めてではないのに、高鳴る鼓動が抑えられない。
下を向いたままでいると、光忠が長谷部の頬に触れて顔を上げさせてきた。
「ん……」
そして今度は、光忠からキスをされた。光忠は口を離して、すぐ側で言う。
「……ずっと、こんな風にしたかった」
声も表情も、本当に嬉しそうなものだった。それを見て、長谷部も嬉しくなった。近づいた距離を一旦離し、光忠が次の話題を口にする。
「ところで長谷部くん。長谷部くんはネコでいいのかな?」
「む、むしろ……ネコがいい。その、自分で弄ってる、から……」
長谷部がそう答えると、光忠はなぜか固まった。いくらか省略して言ってしまったのでちゃんと説明が必要だと思い、長谷部は仄めかすような言葉を使わず、しっかりとした単語を口にした。どうせこれからもっと恥ずかしいことをするのだから、これぐらいで恥ずかしいと思うのはやめようと思った。
「つまり……自慰の時に、アナルも使っているということで……。指や玩具も挿れたことがあるから、セックスも問題ないと思う。……セックスの経験はないから、処女、だが」
長谷部が説明すると、光忠はふぅーと大きく息を吐いて下を向いた。何か気に障ることをしたかと不安になったが、それは杞憂だったようだ。それからすぐに顔を上げた光忠が、口の端を少し上げて笑っていたからだ。
「なにそれ、えっちすぎるでしょ……」
どこか好戦的な雰囲気も感じる。どうやら、興奮しているようだった。
「……君に、いろいろしたくなってきちゃった」
何か攻めのスイッチを入れてしまったらしい。しかし長谷部はそれに嫌悪も、恐怖も感じることはなかった。むしろ。
「……いい。光忠の、好きにしてくれ」
こんな様子の光忠に、あれこれされてみたいと思ったのだった。光忠は「そう」と小さく呟いた。
「それじゃあ、長谷部くんのえっちなおしりを僕によく見せて。"Present"」
光忠から命令され、長谷部は背を向ける。そして体をうつぶせに寝かせ、膝は立てて尻を突き出す姿勢になった。
「んっ……」
そうするとすぐに光忠の手が尻に触れてきて、おもわず声が漏れた。尻肉に触れた手が、中心をよく見るようにそこを拡げてくる。こんなところを他人に見せるのは初めてなので、緊張感から鼓動は速まっていく。でも、光忠に見られるなら嫌じゃないと思った。
「じゃあ、ここ触るからね」
光忠は一度手を離し、ベッド近くの引き出しからローションを取り出した。その中身で手を濡らし、先程よりもぬめりを帯びた指で長谷部の後孔に触れてくる。
「あぅ」
すぐに中へ指を一本挿れられ、長谷部は声を出した。自分の指を挿れたことがあるから異物感には慣れているはずなのに、他人の指となると感じ方が違う気がする。指は一度抜かれ、今度は二本目の指と共に再び入ってきた。
「んッ、あ……」
根元までしっかり挿れられた指が、すぐに長谷部の前立腺を探りあてる。自身で開発したそこは、簡単に快感を得るのだった。
「はぁ、う、ぁ……」
「ここ、好き? 気持ちいい?」
「ん、うん……」
光忠の問いに答えれば、そこへの愛撫はどんどん激しくなっていった。
「ん、あッ! あ、んん……」
自分でも出したことのないような声が一瞬弾けて、長谷部は咄嗟に口元をシーツに押しつけた。こんな声を聞かれるのは、流石に恥ずかしすぎる。
「長谷部くん。今かわいい声が聞こえたのに、どうして抑えちゃうの?」
「ん、んん~……!」
「声、抑えちゃ駄目」
「ふぁ」
挿入していない光忠のもう片方の手が、長谷部の顎までのびてくる。そしてシーツから顔を離され、そのまま口に指を入れられてしまった。
「あ、ふぇ」
「長谷部くんの声、もっと聞かせて?」
「あッ! ふあ、あ、あ……!」
後孔に挿れられた光忠の指が、一層速く動き始める。強制的に口を開けられた長谷部は、もう声を抑える術がなかった。口を閉じようとすれば、光忠の指を噛んでしまう。光忠の体を傷つけることはしたくなかった。
「あ、あー……! んぁ、ああ……!」
イキそうになるが、口に指を入れられていては言葉にすることもできない。長谷部はそのまま、高い声を細く上げながら達するのだった。
「あっ、~~~~ッ!」
「イッちゃった?」
「うぁ……」
光忠にそう尋ねられ、長谷部は荒い呼吸をしながら頷く。口に入れられていた光忠の指は、ゆっくりと長谷部から離れていった。その指は唾液で相当濡れていた。自身の口の端にも唾液が残っているのが、感覚でわかった。
「頑張ったね、"Good boy"」
「んぁ……」
褒められながら後孔から指が抜かれていき、長谷部は身を捩って喘いだ。
「声もおしりもえっちすぎるね。長谷部くんはえっちな子だったんだねぇ。……でも、そんな長谷部くんのことが、好きだよ」
言葉攻めの後に愛の言葉を与えられ、長谷部はまた新たな悦びを知る。褒められるだけじゃなくて、攻められるのも良いと思ってしまった。
「あ、う……」
どうしてかどんどん体が気持ちよくなってきて、なんだか落ち着かなくなってくる。この状態で光忠にしてもらうなら何がいいだろうか。その答えは、すぐに出た。これ以外は考えられなかった。
「もっと、命令して……」
なんでもいいから、光忠に命令してもらいたかった。どんな命令も聞きたい。そしてちゃんとできたら褒めてほしい。……もっと、支配されたい。
そんな長谷部を見て、光忠はすぐに頷いた。
「そうだね。じゃあ、挿れる前に僕もイかせてもらおうかな」
光忠はそう言うと、長谷部の体をゆっくりと起こさせた。そして光忠と向き合う形にされ、下を向くように促される。長谷部の視線の先にある光忠の陰茎は、もう見事なまでに勃起していた。この状態も見たことがあるのに、おもわずドキリとした。そんな長谷部の心境に気づいてかどうか、光忠は陰茎を軽く持ちながらコマンドを発した。
「"Lick"」
陰茎を舐めろという命令である。何度もしたことのある行為だが、これまでとはまったく違う気分だった。しかし、拒む気持ちは少しもない。長谷部は光忠の股間のあたりまで身を屈めた。
「ん……」
光忠の陰茎にそっと舌を触れさせる。根元のあたりから上までつうっと舐めあげ、それからカサになっている所を柔く食んだ。そのまま同じところを何度も舐める。
「ふぅ、んん……」
その次は先端を口内へ招き、舌で鈴口を撫でる。そうすれば、頭上から光忠がはぁ、と息を吐き出す音が聞こえた。きっと悦んでくれている。そう思うと嬉しかった。
「そのまま続けて」
そう言った光忠が、長谷部の頭を押さえてきた。軽い力であるが、こんな風にされるのは初めてだった。
「んぐ、ん」
光忠の陰茎をもう少し奥まで飲み込み、口での愛撫を続ける。光忠の手の力は弱いので愛撫のために頭は動かせるが、これまでのように簡単に口を離すことはできない。しかしこの『されている』感じに、長谷部はいくらかの興奮を覚えていた。
「はぁ、いいね……」
「んっ……んん」
光忠は長谷部の頭を押さえるだけでなく、同時に撫でることもしてくれた。それも嬉しくて、夢中でフェラを続ける。そうして行為を続けているうち、光忠が荒くなった呼吸の中で長谷部に呼びかけた。
「長谷部くん、一旦離れて」
光忠の手も長谷部の頭から離れ、長谷部は従って陰茎から口を離す。それからすぐ、光忠が唾液にまみれた陰茎を強く握り込んだ。
「ぐ……ッ!」
それとほとんど同時に光忠がくぐもった声を出し、陰茎から精液が迸った。至近距離にいた長谷部の顔に、それらはしっかりとかかった。
「ふ、あ……」
これまでのフェラでは、光忠がイキそうになったら長谷部は体ごと離され、最後は光忠が自身で扱いて達することで終わっていた。こんなに近い距離で射精されたことも、顔に精液をかけられたことも初めてだった。
顔を上げると、こちらを見下ろしていた光忠と目が合った。
「"Good boy"」
そう言う光忠の目はギラギラと滾っていて、Dom性から何まで全身で悦んでいるのだと感じ取れた。目が合っただけでゾクリと体が震える。その感覚は気持ちいいもので、光忠がこれだけ悦んでくれたことが嬉しくてたまらなかった。
「汚しちゃったね」
「ん、平気だ……」
光忠は長谷部の顔を指で拭う。そして精液がある程度とれてから、次の指示を出した。
「それじゃあ……長谷部くんの中に入らせて。さっきと同じ姿勢をしてごらん」
その時がいよいよ来たと実感し、長谷部は頷いてから、先程と同じくうつぶせに寝て尻を突き出す姿勢をとった。光忠はまたベッド近くの引き出しを開け、そこからコンドームを取り出す。なんだか、妙に準備がいい気がする。もしかして、他にこういうことをする相手がいたのだろうか。
「なぁ……。随分と準備がいいが、俺以外の誰かとそれを使うようなことをしていたのか?」
不安に思ったので率直にそう聞いてみれば、光忠は「あー……」と零して苦く笑った。
「ほら、長谷部くんとプレイしていた時、触りあったりフェラしてもらったりしてたから……完全に下心なんだけど、本格的なセックスまでいくこともあるかと思って。長谷部くんに求められたらちゃんと応えられるように、道具の準備はしておいたんだ」
「な、なんだそれは……」
「処女だろうと思って……いや、これもほとんど願望なんだけど……。慣らすのに使おうと、小さめの玩具も準備してあるんだよね」
「どんな準備をしているんだ……」
長谷部が処女なのは事実だが、自慰によって尻の経験は豊富である。今の自分は、光忠の想像していた処女ではないだろう。
「おまえの想像した処女じゃなくて悪いな……」
「ううん、そんなことないよ」
そう言って、光忠は長谷部の体に覆い被さるように、後ろから抱き込んできた。
「むしろ、えっちで興奮した」
耳元でそう囁かれ、ドキリとした。それから、受け入れてもらえたことに安堵する。そしてその後に、光忠はそれだけ自分のことを想っていたのだとわかって、これまで自分が光忠にしてきたことに対して再び罪悪感が湧いてきた。告白されたら殴って、友達という関係を続けさせて、本当にひどいことをした。
「こんなに俺のことを想っていたのに、無下にするようなことばかりして……悪かった」
詫びる言葉を告げれば、光忠は長谷部を抱く力を強くした。
「言っただろう、それを忘れられるぐらい幸せにしてって。これはお願いじゃなくて、命令だよ」
光忠のその言葉で、また体が震えた。命令という形にされて、きっとSub性が悦んでいる。しかしこの言葉が嬉しいのは、そういう理由だけではないと思う。
過去を後悔しても仕方ない。これからは光忠を幸せにしよう、一緒に自分も幸せになろう。それは命令でなくても長谷部の望むもので、ちゃんと叶えることができるものだと思えた。
「……わかった」
光忠にそう返事をすれば、光忠は気持ちを寄せるように長谷部に体を擦り寄せた。
「じゃあ……いい?」
はっきり言われなくても、もう何を求められているのかわかる。長谷部が頷けば、光忠は抱擁を解いて体を起こした。それからすぐにコンドームをつけたのだろう、少しだけ間をおいてから、光忠は長谷部の尻にまた触れてきた。
「挿れるね」
光忠がそう声をかけてすぐ、長谷部の後孔に大きな質量のものが入ってきた。
「う、あ……!」
長谷部は大きめのディルドやバイブの経験もある。しかし光忠の陰茎はそれ以上で、苦しいとさえ感じた。痛みも同時に感じる。
それでも、これが嫌だとは思わなかった。むしろちょっと痛いのが良いかもしれない。
「あ、うぁ、あ……」
「はぁ……全部、入ったよ」
そう言われたことで、自然と中が光忠のモノをきゅうと締め付けた。ものすごい質量で、挿れられただけなのに呼吸が乱れて落ち着かない。
「はぁ、あ、あ!」
それからすぐ、光忠は抽挿を始めた。すぐに速度は速くなって、為す術もなく喘ぐことしかできなくなる。
「あッ、あ、らめ、ふあ、あ……!」
与えられる感覚が自慰とは桁違いで、無意識に腰を引いて逃げようと体が動く。しかし光忠にグッと腰を引き寄せられ、逃げることは叶わなくなってしまった。
「うぁ、あッ」
「逃げちゃ駄目」
「うぅ、う~……ッ!」
必死にシーツを掴んで、もうなにがなんだかわからなくなってくる。気持ちよすぎて、そして光忠が愛おしくて、それ以外は考えられなくなる。
「あ、あ、きもちい、みつただぁ」
恋愛がわからないなんて思っていたのに、一度自覚すれば『好き』という気持ちが溢れてやまない。これだけ気持ちいい中、もっと気持ちよくしてほしいと更なる欲求が生まれた。
「光忠、命令して……っ」
揺さぶられながらそう頼んでみれば、光忠はそれをすぐに聞いてくれた。
「"Kiss"」
コマンドを発することで返事とされる。長谷部は必死に振り返って、こちらに顔を近づけていた光忠にキスをした。その間も抽挿は止まらなくて、上も下も気持ちよくてたまらなかった。
「ふあ、みつただ、みつただぁ……」
「……やっぱり、顔見てしたいな」
キスの最中、光忠はそう呟いた。それからすぐ、体を離して陰茎も抜いていった。
「ふぇッ」
突然与えられていた感覚が全てなくなったので驚くが、その直後に光忠によって仰向けに寝かされ、また驚く。
「んんッ、う、ああぁ……!」
再度の挿入はすぐにされた。また中を埋められたのが嬉しくて気持ちよくて、顔の側のシーツを掴んで、そこに顔を押しつけるようにしてしまう。
「うぅ、う……!」
「"Look"」
顔を背けていたら新たなコマンドを出され、長谷部は正面に顔を向けた。「こっちを見ろ」というコマンドに従い、長谷部は自身を組み敷いている光忠の顔を見る。
「"Stay"……そのまま僕のことを見てて」
「うあッ、あ」
光忠はそう言ってから、再度の抽挿を始めた。抽挿の速度は落ちず、むしろどんどん速まっていく。
「ふあぁ、みつ、みつただ……っ!」
シーツに顔を押しつけたり、身を捩るように頭を動かしたくなるが、コマンドにされてしまったので光忠から目を逸らすことはできない。こちらを攻める光忠の顔をずっと見ていることになる。
「あっ……」
常では見られない、雄の表情を全面に出した顔。そして確かに快感を得ているその表情に、胸が甘く高鳴った。好きだ。かっこいい。そんな気持ちで胸が満たされていく。
「光忠……すき」
「僕も長谷部くんが好きだよ」
「ふ……ッ」
光忠の顔が下りてきて、またキスをされる。舌も濃厚なまでに絡められて、気持ちよくてたまらなかった。
「はふっ、は、みつただ……」
光忠は口を離す。
「これ、できるかな」
すると光忠が、小さくそう呟いた。それからすぐ、長谷部に命令をする。
「長谷部くん、頑張って命令聞いてごらん。……"Cum"」
「う、うあッ……! あ、あ~~っ!」
光忠のコマンドを耳にした途端、近づいていた絶頂の波が一気に押し寄せてきて、そのまま長谷部は達した。
「はぁ……う、はぁ……」
抽挿も一旦止められ、呼吸を整えているうちに物事も考えられるようになってくる。何が起こったかは徐々に理解したが、自分でその事実に驚いた。Cumは「達しろ」と絶頂を促すコマンドで、その意味は長谷部も知っていた。だがずっと「こんなことできるわけがない」と思っていた。自慰でさえ達するタイミングは完璧にコントロールできないのに、いくらコマンドとはいえ他者の指示だけでできるわけがないと思っていた。
しかし今それができたということは、それだけ光忠というDomの支配下に入っているということだろうか。そう思うと、急速にSub性が満たされていく。
「ふふ、ちゃんとできたね。本当にいい子だ。"Good boy"」
光忠も嬉しそうにしながら長谷部を褒める。すると達したばかりなのに、また体が気持ちよくなってきた。光忠は今動きを止めているのに、体が確かな性感を覚える。
「はぁ……う……」
その快感は徐々に強くなっていく。強烈な快感とはまた違って、ふわふわと内側から広がっていくような快感だった。身を捩って、入ったままの光忠の陰茎もぎゅっと締め付けてしまう。
「かわいい顔してる……気持ちいい?」
「うん……」
「もしかして、Sub spaceに入ったのかな」
Sub spaceもどういうものかは知っている。気持ちいいものだとは知っていたが、これほどまでに気持ちいいとは。光忠にこうして抱かれていて、そして強く支配されているのが嬉しくてたまらない。
「長谷部くん」
光忠が長谷部の頬に触れてくる。長谷部はその手にスリ、と頬を擦り寄せた。
「続き、このまましていい……。まだ……イッてないだろ……」
自分だけでなく、光忠にも気持ちよくなってほしい。そう思って続きを促せば、光忠は「うん、そうするね」と頷き、止めていた腰の動きを再開した。
「あぁッ、あ!」
「すご……さっきより締まるね」
「あ、ん、みつただ、すきぃ」
「うん、僕も……ッ」
「すきぃ、みつただぁ……んんっ」
愛の言葉の代わりのようにキスをされ、長谷部はそれに必死に応える。
「ぷはっ、みつただぁ……ッ!」
「ね、一緒にイこうか。"Cum"」
「う、あッ、ああ~~……ッ!」
また同じコマンドを出され、長谷部は先程のようにすぐに達した。光忠は歯を食いしばり、動きを止めて体を震わせている。その様子を見て、一緒にイッたのだと理解できた。
「はぁ……は……」
互いに呼吸を整えている間、光忠が額を長谷部の額に擦り寄せて囁く。
「"Good boy"……僕の長谷部くん」
光忠はそれから、ぎゅっと長谷部の体を抱きしめてきた。長谷部も光忠の背に手を回し、力を込めて抱きしめた。
「……この先ずっと、俺はおまえのものだ」
長谷部がそう告げれば、光忠はまた嬉しそうに額を擦り寄せるのだった。
◆ ◆ ◆
セックスを終えてから寝て、その翌朝。
長谷部が目を覚ますと、隣で寝ていた光忠が長谷部の首を指先でつつっとなぞっていた。
「……なにしてるんだ?」
「長谷部くんがCollarをつけたら、この辺りになるかなって思って」
そう言って微笑む光忠は、心の底から幸せそうだった。それを見て、長谷部も強く幸せを感じた。
「格好いい物を選んでくれよ」
「もちろん。まかせて」
「……なぁ。何か、命令してくれないか」
幸せを実感したら欲求が湧いてきたので、光忠にそう頼んでみる。すると光忠はフッと笑ってそのコマンドを口にした。
「"Kiss"」
長谷部はそれに従い、光忠と顔を近づけてキスをした。
もう、キスを拒む気持ちも理由もなかった。光忠とは恋人になって、これからは正式なパートナーとなるのだから。
◆ ◆ ◆
「ん? 長谷部、それ……」
薬研と共に社内カフェに来ていた長谷部は、隣に座っている薬研から指摘をうける。
「首のそれ、Collarか?」
「ああ」
口をつけていたカップを離してから、長谷部はそう答えた。
「へー、今まで気づかなかったな。襟閉めてたからか」
「そうだな」
社内カフェに来ている時はいわば休憩時間なので、長谷部はシャツの襟元をゆるめていた。正確な理由は「社内カフェに来たらカウンター席に座って、Collarが見えるぐらいに襟元をゆるめるように」とパートナーに命令されているからなのだが。
長谷部の答えを聞くと、薬研は「いつの間にねぇ」とニヤリと笑った。
「よかったら、今度おまえのパートナーに会わせてくれないか? どんな人物か気になる」
「ああ、そのうちな」
コーヒーを飲み終えたカップを置いて、長谷部は正面、カウンターの向こう側を見る。すると仕事中で手元を見ていた光忠が顔を上げ、長谷部と目を合わせて小さく微笑んだ。長谷部も光忠を見て、同じように笑みを返した。
「薬研、そろそろ戻るか」
「おう」
長谷部は右下端の折られた紙ナプキンを手に取り、口元を拭う。そしてそれを綺麗に折りたたんで、ソーサーの上に置いてから席を立った。